の言いたい放題
2021
早いもので10年が過ぎ頭屋の年になり、また正言講を語りたくなった。年が明けると心の準備を始めるから、いろいろ調べたくなるのだが。 今までとの重複を覚悟の上で考察してみよう。(羅列による即ち未完)
〔2020年10月18日〕
{現在の結論:
大神神社5社家の一人箕倉氏の声掛けと氏の同講参加によって、上級講員扱いの講として1610年(但し、心経会)に始動したと結論付けよう。 明治以降、神仏分離令後は、神社の特別な氏子として「春の大祭」に深くかかわるようになった。すべては、講営みの原資「講田」があったからに他ならない。
第2次大戦敗戦後、GHQの農地改革によって、この講田は無くなった。
ところで、江戸初期では長い戦乱によって、田畑が荒れ、百姓も疲弊し人口も減少していた。講田があっても耕す者がいなかった可能性がある。
織田信長の圧政(1579年:三輪山の大木700本伐採宇治橋に使う)で、村は疲弊し、30年経過して、ようやく立ち直りかけた茅原村に、社家の箕倉氏の声掛けにより、 現在の茅原心経会(正言講)は始まったと想像できる。
但し、心経会は以前(神社職員による心経会記録1588年)からあったと思われる。
また、箕倉氏が声をかけたのは、箕倉城で見張り役を担っていた、腹心連中であったろう。
・社家(しゃけ)とは、特定の神社へ奉仕する役目を世襲で継承してきた家のこと
・越家は西暦900年から御所の豪族巨勢氏からわかれ大神神社に奉仕されている
・箕倉家は三重出身で後醍醐天皇の1300年ころから大神神社に奉仕されている
心経会の為に専用の田が2反(神社職員等1588年)・1反半(茅原正言講1610年)とあることが、この講を継続・発展させることにつながった。もっと言えば、
心経会田が無ければ、この講は無かった。一坪も田を持たない講員が、1610年の講員名にあるからだ(1595年太閤検地より推察)。 何故なら最大25名(明治中期)に及ぶ直会の用意を、自腹でできるわけがないし、講員の増える理由が想像できない。
コメがお金の時代である。現在では財務省だけがお金をつくれるが、コメという金は、開墾する場所があればつくれる。開墾の理由が、 心経会を営むことなら許可も出るであろうし、なお免税地であるならこれ幸いである。戦が無くなれば領地拡大ができないのだから、開墾に頼らざるを得ない。 ましてや、現在のように、既存の田畑が耕作放棄地になるなどもっての外の時代である。
講田の形跡は、狭井神社の北側、山上遺跡周辺に、今は杉林の段々畑の形状で残っている。敗戦後(1945年)の農地改革では、誰の所有か、 特定出来なかったのだろう。講の所有という形式は、認められなかったのかもしれない。
400年前とは精神文化が違うので、探り当てるのは難しいが、戦国時代の1585年から始まる刀狩によって、士・農分離が行われ(刀(苗字を名乗れる)を取るか、 田(苗字は名乗れない)を取るか)、年貢の収奪が大名に集約された結果、刀を取った大神神社関係職員(5社家等)の食い扶持は減っただろう。
江戸時代:大神神社「神官生活費60石+神社諸行事分115石?」
また、長い戦乱の結果、行事を行うための人の減少や、原資である田の荒廃もあったに違いない。その為、彼等は心経会等祭祀・行事のための朱印地(無税)を利用し、
食い扶持を補わざるをえなかった。
そして、この行事を行った証明書として、神社が参加者名を書き、箕倉氏に渡した。(既成事実の積み上げと上級講員扱いの証として名を書き記した)
今から3千年ほど前、トロイの木馬の時代。ホメロスが語る「イリアス」や「オデュッセイア」の物語には、身分証明の大切さが語られている。 戸籍制度のなかった時代、自分の出生を言えない者は、鼻であしらわれた。逆に、何代にもわたって家系を語ることができ、中に有名な先祖でもあれば、
初対面でも大事にもてなされたのである。
茅原正言講(しょうごんこう)は、410年前から書き継がれてきた宮座文書(1610〜)によって、400年以上遡っても講員の出生を証明できる。
(とはいっても、ただこの村に先祖代々住み続けているということだけだが)
ところで正言とは何か。正しく口伝することとは、4百年間口伝されてきたこととは。直会で語られてきた大事は、2点にしぼってもよいだろう。
まず、茅原正言講の講員は、茅原に最初に移り住んだ先祖を、持っているということ。これは、信長の圧政の生き残りの意味だと解釈する(一から出直した仲間の意味では)。 証明は難しいのだが(信長公記及び多門院日記参照)、それ故、村内の分家も講員になる資格を持つ。
後一つは、大神神社より古くから、正言講があるということなのである(こちらは、たぶん、拝殿よりということ)。現在の拝殿は、 寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の造営による
上記、現存宮座文書の最初(1610年)は、以下のように読める。
『キタムラシンキヤウエノコト ミノクラトノ ヒカシキヤウ一郎 キタエモン ウマ ヨ一郎 セン四郎 ヨ七 才二郎 カヰハシラヨ八郎 キタムラヲノヲノ キヤウチヨ
十五子ンカノトノヰヌ 正月十一日』(郎は略字・子ンは年・昭和48年龍谷大学教授・池田源太氏読解による カノトはカノエの誤りか?)
(前にも書いたが、検地帳と照らせば「キヤウ一郎」は「キヤウフ」つまり「形部」、「ウマ」は「ウコ」つまり「右近」であった。教授もたまには間違うということ)
ただ、これを読む限りにおいて、この書き出しが茅原正言講の初めとは、思いにくい。何故なら、後に示す「シキヨエヲリモノノニッキ」には、式作法及び用意するものが、
具体的に書かれているからである。初めて行う講なら、ここまで詳しく書けないだろう。何か唐突に、記名することが、始まっているように感じるのだ。(実際、古老によれば、
さらに古い「神さん箱」…箱だけを作り替えた可能性を否定できない…があったと云われている)
いずれにしても、現実に存在する文献としては、これが一番古いので、この文書を手がかりに、正言講を考察するしかない。
内容は心経会「シンキヤウエ」の講であった。参加者は「ミノクラトノ キヤウフ エモン ウコ ヨ一郎 セン四郎 ヨ七 才二郎 ヨ八郎」の9名。
時は慶長15年庚戌1月11日「キヤウチヨ十五年カノトノヰヌ 正月十一日」。当屋「カヰハシラ」はヨ八郎である。「ヒカシ・キタ」は、同名が村にいて方角で区別したものと見られる。
また、陰暦正月(現在の立春頃)に行なわれていたことがわかる。1610年は正月11日、1611年は正月10日だった。
ところで、心経田があった。狭井神社北側木取川に1反半の講田である。ここから取れる米のうち6斗2升5合で講は営まれた。
刀狩りによって、武士を選ぶか百姓を選ぶかは、百姓一揆ができる土農のこと。僧兵に田はない。心経会という祭祀を営み、これを営む為の心経田からの収入が生きる糧になった。
刀狩にあい、武士大名に収入のすべてを奪われた彼等の生きる道の一つが、心経会だった。
正月に心経会を行うにあたって、当屋にあたると餅を搗き、供物として神社にお供えをしたのだろう。当時の餅は、ご馳走に違いない。それで、 当屋のことを粥柱というのでは(本来はお粥に入れる餅のこと。子孫繁栄・五穀豊穣の象徴。粥柱にあたると餅をついたと思われる)。
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心経会目録 「細川氏所蔵」2013年読解
一 ハタタケ二ホン ハタクシ二本
一 百枚 カ子カミ 壱テウ チウシ クレスミ二テウ
ハタカシラノ三枚ソキ アラソノ ヲ 一ワケ ヌノ一シヤク
ホウロク一ツ スリコハチ一ツ スリコキ一ツ
ノリ一ハチ タナ六タヰ ワラ一ソク ナワ一ワ
スミ二カラケ サケ二トタル ニシウサカナ二セン
三ノ子キニメシヰテキアヰアリ
一 ニワハキノモチ八マイ サケ一升 サンマイ一升
十一日ニ センニセンサケ弐升ヲリタ ツチクラカケ タウヤエ モチ ワタス也
十二日ニ ニワハキ サシウニアリ 三ノ子キニワニセン
ナカラキヤウ アサヽ 一センコセトノヘ 同一センハコモンヘ
ユフサ 一センカ子ツキ 同一センホツケウ
十一日ノアサヽ シヤケ方ヘアリ二合モチ一ツツヽ ナカラキヤウ一ハイツヽ
一 ユフサ シヤケ方ヘアリ 一升キヤウ 一ハイツヽ 二合モチ 二ツツヽ
ナカラモチ 一ツツヽ 大コンノクラモリ コハウノクラモリ
ウトメノクラモリ クハシニタンコモチ 一ツノ
コフ一ツ カキ一ツ
一 ユフサ サイシ方 シヤケ方ノナミニアリ 十日ノユフヘコヽロミアリ
シヤケ方ヘハ 三ノ子キフルヽ サイシエハ タウヤヨリフルヽ
シヤケ方ヘハ三ノ子キフルヽ
チセンホウリ三ツツヽ 十一日ニモ同アリ チセンホウリ
一 十一日ノタフケアカシ ワリキ一カニ 八ソクヰヽテ
コノトキコモンニサケノマスル
一 百文ミノクラケヨリロクヰツル
一 大ヒヤウ 斗カヽミ一メン 三升カヽミ三メン二升タル一ツ
シンクウノタナミキ 十日十一日コヽロミニ アササハ一ト ユフサハ二トフルヽ 三ノ子キフルヽ
ニワハキニモ三ノ子キフルヽ
一 大タウヤノヤク 四日ノサケアケニ ヨリ子ヘアフリモチアリ
大タウヤノヤク ミソ 同ユシホリ ヨリ子三ノ子キ ヒルノメシアリ ヨリ子ヨリ
大タウヤへ二升カヽミアリ
八日ノ米ツキノヒルメシモ大タウヤノヤク
ヲンナ一人 ヲノ子一人 ヨリ子ヨリ出ル
八日ノユフヘヨリハ サウノモノヲメシ
十二日ノヒルノメシハ ヨリ子二人ノシユヨリ 大タウヤヘフルマイアリ
一 シハ 二カツヽ ワリキ 二カツヽ コハウ 五ワ 大コン五ワ クロメ三ワ
アツキ二升 マメ 二升
クロ トキ ニカラケ 三トヰリ サウカンニ 人カスニアリ
サノ日 ヲサエサカナニ コフカキ二トアリ
一 ヤマタノ田ヨリ十合ニ五升コセトノヘ出ル トリヲツ**
一 壱人マエニ壱升弐合ツヽ出ル コレハリンシナリ
一 心経会田 一反 ナカマコウメナカノモト セマチ三ツアリ 一反 ヤマタヒライシ
天正十六年戊子正月十一日 新頭 ミナミ 古頭 ヤ五郎■■ 古頭 ■五郎ヒヤウエ
天正十七年己丑正月十一日 古頭 ヲカモト 古頭 スキマツ 新頭 彦八
天正十八年庚寅正月十一日 古頭 ヒラヰ 古頭 ソウサエモン 古頭 マコサエモン
天正十九年辛卯正月十一日 古頭 ウコン 新頭 マコ四郎 新頭 マコ九郎
天正廿年壬辰正月十一日 古頭 衛門尉 新頭「与五郎」 新頭 小四郎
文禄二年癸巳正月十一日 古頭 五郎左右衛門尉 古頭 形部 新頭 弥次郎
文禄三年甲午正月十一日 古頭 南 古頭 四郎 古頭 弥三郎
文禄二二年乙未正月十一日 新頭 又五郎 新頭 孫彦 古頭 弥五郎
文禄五年丙申正月十一日 古頭 五郎兵衛 古頭 岡本 古頭 源十郎
慶長二年丁酉正月十一日 古頭 平井 古頭 宗左衛門 新頭 乙
慶長三年戊戌正月十一日 新頭 三郎 古た ウコ 新頭 長三郎 古た マコ四郎
新頭 甚六 古た 孫九郎
慶長四年ツチノトヰ正月十一日 シた 源四郎 シた 長三郎 シた チン六
慶長五年カノヘ子正月十一日 シント ヨ一 同 ヒラヰ 同 又四郎
慶長六年カノトノウシ正月十一日 コト ヱモン キヤウフ ヨ七郎
慶長七年壬寅正月十一日 古頭 南 同 又五郎 同 北形部
ケヰチヤウ八年ミツノトノウ正月十一日
シンタウ ヤ三郎 シンタウ チン七郎 シンタウ ヨソウ
ケヰチヤウ九年キノヘタツ正月十一日
コト ヲカモト コト ソウサエモン コト シユンシ
ケヰチヤウ十年キノトノミ正月十一日
コト ケン四郎 シト ヒラヰ コト マコ九郎
ケヰチヤウ十一年ヒノエムマ正月十一日
コト ヨ一 コト 長三郎 コト ケン六
ケヰチヤウ十二年ヒノトノヒツシ正月十一日
エモン シント センスケ シント ケン五郎
ケヰチヤウ十三年ツチノヘサル正月十一日
コト ミナミトノ コト 又五郎 コト ヤ三郎
ケヰチヤウ十四年ツチノトトリ正月十一日
コト キヤウフ コト ヨ七郎 シト カ六
ケヰチヤウ拾五年カノヘヰヌ正月十一日
シンタウ ウコ シンタウ ソウ三郎 シンタウ セン五郎
ケヰチヤウ拾六年カノトヰ月正月十一日
コント ヒカシキヤウフ コント チン七郎 コント ヨソウ
つづく
上記。細川家所蔵の「心経会目録」は、天正16年(1588年)から書き始められており、用意すべきモノ、段取り等日を追って詳しく記されている。ここにも、
コセトノ・ミノクラケの名があがっている。
ただこの心経会には村名が無い。いまでいう神社職員の講と考えられる。
五社家:宮司高宮・(権宮司越・土屋・箕倉・岡本・南)
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シキヨエヲリモノノニツキ
・・・・心経会おりものの日記
二升コメ 二十サケ一升 コセトノ
・・・・2升米20 酒1升 巨勢殿(越殿)
ココロミノサケ一升 タンコモチ二ツ コセトノ
・・・・試みの酒1升 団子餅2つ 巨勢殿
一升コメ 二十サケ五合 二ロウ
・・・・1升米20 酒5合 二臈
五合コメ 二十サケコナカラ 三丿子キ
・・・・5合米20 酒二合半 3郎禰宜
四升コメ 二十サケ二升 ホン子キ
・・・・4升米20 酒2升 本禰宜
五合コメ 二十サケコナカラ カ子ツキ
・・・・5合米20 酒2合半 鉦撞き
五合コメ 二十サケコナカラ 同カ子ツキ
・・・・5合米20 酒2合半 同鉦撞き
五合コメ 二十サケコナカラ コモン
・・・・5合米20 酒2合半 こもん
二合モチ二十四マ井此内四マ井ノリノモチ
・・・・2合餅24枚此の内4枚海苔の餅
二升タル ハタヨリヱ井ク
・・・・・2升樽 旗依りへ行く
カ子カミ百マ井 中チ一テウ
・・・・鉦紙百枚 中チ(半紙?)一帖
ヲコシスミユヱン二テウ ソウキ
・・・・熾し炭 油煙2丁 そぎ
三マ井 ヌノキレ井シヤク ヲスリコハチ
・・・・3枚 布切れ1尺 お摺小鉢
一ツ ヒヤカキクチナシ スクサムキ
・・・・1つ 百かき(イッカキ「米研ぎ笊」?)口無し すぐさ剥き
スリコキ
・・・・擂粉木
慶長拾五年正月十一日
・・・・慶長15年正月11日
一斗モチ 大ヒヤウ
・・・・1斗餅 大俵
三升モチ三メン 二升タル一ツ
・・・・3升餅3面 2升樽1つ
サノコト サキクミヒラキ 合メ ヒキワ
・・・・さのこと 先組み開き 相閉め 引き渡し タシ
コホ アスキ モ二ツ サカナヒラキ
・・・・こほ(のち) 預け も2つ 肴開き
合メ ヒキワタシ コホ ウラヱクタル
・・・・相閉め 引き渡し こほ 裏へ下る
サカナヒラキ 合メ ヒキワタシ コホ
・・・・肴開き 相閉め 引き渡し こほ
二ロヱマ井ル ウラヱクタル アカカワラケ
・・・・ニ路へ参る 裏へ下る 赤かわらけ
上記宮座文書(茅原正言講の神さん箱に入っている)にも慶長15年正月十一日の記名がある。
式次第及び用意するものの一覧であるが、2・3行目のコセトノこそ西暦900年から代々権宮司を務めておられた越権宮司のことである。 越権宮司も心経会にかかわっておられたことの証となる。越家は今も三輪のナカムラ(馬場区)に住まいがある。
ところで、唯一姓で書かれている箕倉殿の子孫(芝・2009・5・17)に、お伺いしたところ、もとは大神神社の神官で、大神神社の権宮司越氏や土屋氏とも知己であったと。
南北朝時代には、後醍醐天皇の南朝方であったらしい。
神仏習合の時代であるから、般若心経も唱えられていたことは容易に想像できる。箕倉殿に促がされて他の8名が心経会に参加したのだろう。土地に縛られて生きる時代、
平均寿命35才と言われた時代の、心経会のもつ意味は大きい。それにしても、明治初期の廃仏毀釈「神仏分離令」の嵐はすさまじかったのか、 神僧職を捨てて桧原坂に住居を移され、さらに現在の芝へ移られた。
江戸時代初期には、般若心経の講読(功徳を積むこと=心の平安が得られる)が庶民にまで広がっていたことは、事実らしい。そして、直会(酒宴席)をした。 直会無くして心経会があったとは、思えないからである。直会を楽しみとして心経会を、まじめに行なっていたと考えるのが普通であろう。
この宮座文書を収めた「神さん箱」の裏に、次のように書かれた紙が貼ってある。但し、この内容の信憑性は疑わしいと思われる。「郎」を「ロ」と読み、
「キヤウフ」を「キャウノ」と写真の字を見て読み取れるからである。専門家と素人の読解能力の違いが出たのではないか。
≪此粥柱慶長拾五年 辛亥年始人名 箕倉 京(野) キタエモ(ノ) ウコ ヨイチ(ロ) センスケ ヨ七 サイチロ 粥柱ヨハチロ 明治十九年乙戌年 四月十一日 頭渡シ座
ニ拝見 7ツ半ノなわ 乾與平治改メ ≫
明治十九年(1886年)4月11日 頭屋の引継ぎの日に「神さん箱」の宮座文書を講員で確認した。(因みに明治25年〜大正5年には講員最大25名)
2010年4月25日撮影によって、明治19年の頭屋は杉本酉蔵で、乾家は乾利吉。同28年から乾与平治となっている。このことから、 明治19年に宮座文書を皆で確認し最初の慶長15年の文書を写し、神箱を新調した。また、同28年以降(19年と字体が違う)に乾与平治が7ツ半の縄を新調し確認したと想像できる。


大神神社の冊子「大美和」46号(昭和49年1月1日号)に、心経会・正言講のことが掲載されている。ここには、大神神社でも、江戸初期からこの心経会があったと記録されている。
また、いつこの心経会が無くなったのかは不明で、さらに、正言とは荘厳のことだろうと書かれている。
この冊子によれば、茅原正言講が伝えてきた小箱(宮座文書)の中の、慶應4年(明治元年1868年)の書き継ぎまで、この講名が心経会だと書かれている。
そして、この年までなぜか茅原(1595年の太閤検地には茅原村となっていた)ではなく北村(北の集落の意)と呼んでいた。
宮座文書(慶長15年(1610年))の最初の行に、キタムラシンキョウエノコトと書き始められていること。箕倉氏だけが苗字で呼ばれ、 ミノクラトノと記名されていることから参加者名簿は、頭屋が書いていたのではなく、少なくとも「心経会」と呼ばれていた間は、神社の神官が書いていたと思われる。
また宮座文書の最初の2年間には、名簿の最後にキタムラヲノヲノとわざわざ書いていることから、他村との合同講であった可能性も考えられる。 (参加の証としてこの参加者名簿を渡したのだろう)
当時、馬場村在住の社家(大神神社に仕える神官)の間では「社供当講」というのが有った。其処には「ミワナカムラ方シャクタウ日記」(1559年〜(大三輪町史より))が存在し、
馬場本村をナカムラと呼んでいたことから、茅原村が馬場村の北方にあるから、社家の間ではキタムラと呼んでいたのではないかと思われる。また、 この呼び名から、茅原心経会が大神神社の講の一つであったことを証明している。
当時箕倉氏は社家であり馬場に住まいがあったこと、茅原村箕倉山に箕倉城址が今もあること等から、どうしても正言講と箕倉氏との関係が気になるのである。
そして、明治新政が始まった1868年を最後に講名が「心経会」からまず「祈年祭御営」その後明治8年以降「正言講」と改められたのである。
これはたぶん、神仏分離令(1868年)・大教宣布(1870年)にはじまる廃仏毀釈運動が、受動的に神社での心経読誦を止めさせ、 心経会という名さえも正言講に改めさせたのではないだろうか。そして、直会と参拝が残った。
以降、神事に変化し、春の大神祭で、氏子の重要な立ち位置を担うことになった。行列の読み上げに「馬場正言講」「茅原正言講」の2つがあることから、 この祭祀において特別な役割を果たしていたと思われる。しかし、第2次大戦敗戦後の急速な産業構造の変化によって、氏子の立場が脆弱になるにしたがって、 講も縮小弱体化したのである。
苗字も、明治8年(1875年)『平民苗字必称義務令』から、名乗れるようになった。同年「徴兵令」も公布。
ところで、般若心経は、真言(マントラ)を説いた経なので、正言という名の講名に替えたと私は考えているのだが、どうだろうか。真言講では仏の香りがするので、 同じ意味合いを表す正言講としたのではと想像している。
(但し、隣の馬場村には、1766年の資料に大正言という宮座の存在を最早、記録している「大美和46号」)
最後に、箕倉氏との関係を考察しなければ、この心経会の始まりを語れないように思う。茅原にある箕倉城址の意味するところは何か、を考えることから入ってみたい。
箕倉氏に聞いたところ、城というよりも、櫓・見張り台程度の建物であったらしい。室町時代末期・戦国時代には必要だったかもしれない。
同氏の先祖は、南朝の後醍醐天皇(1288~1338)に会いに行かれたということや神仏習合の時代背景から、僧兵や地侍の流れを汲んでおられたと想像する。
大御輪寺(若宮神社)は、大神神社の神宮寺として栄えていたことを勘案すれば、キタムラシンキヨウエもここで、読誦していたのではないか。 若宮社から見た箕倉城址や茅原村は、北方にある。
また、大御輪寺のある馬場村には、神官屋敷が多かったので、箕倉氏の住居も明治以前はこの村にあった。
1585年多武峰の刀狩から大和全域に刀狩が行なわれるまでは、僧侶・神官・百姓といえども武器を持っていた。戦闘能力ゼロでは生きていけない時代だった。
箕倉城址はそんな時代の産物である。
このような時代背景を考える時、正言講の記名は、武士の連判状のような性格を持ったものにも見えてくる。一介の神官が個人で櫓といえども、砦を築けるはずもない。
郷村の何人かが協力したに相違ない。この集団こそが、キタムラシンキョウエを始めたのかもしれない。
刀狩令で百姓は武器を奪われたが、箕倉氏の話では、大東亜戦争の鉄の供出時まで、自宅には刀や槍が多数あったらしいので、神官は刀狩の対象外だったのだろう。
ところで、この「村」という正式呼称は、豊臣秀吉の検地(1595年)から始まるといっても間違いは無いと思われる。検地の正確を記すために集落毎に村単位をつけ、
その作地面積を掌握した。これ以降式上郡大神郷はその郷名がなくなり、式上郡茅原村となる。それまでは、茅原は式上郡大神郷の一集落であって、 大神郷の集落の北に位置するので、キタムラという別称があったとも考えられる。
実際、南隣の馬場本村の「社供当講」の永禄3年(1560年)の記録には、三ワナカムラ方シャクタウ日記で始まる文書(大三輪町史掲載)がある。 馬場村をナカムラと呼んでいたのである。但しこの講は大神神社に仕える社家の講であるので、社家の間だけの呼び名かもしれないのだが。
また「三ワ」とは、和名抄にある式上郡大神郷(おおみわごう)のことで、大神郷の中の村が馬場で、北の村が茅原だと考えられる。
神社とともに歩んできた茅原正言講は、正に氏神氏子の絆の典型といえる。
検証(宮座文章を開いて)2009・4・8 嶋岡武彦・北村克明
◎ 1枚目の確認 一行目・日・名前・講名。=確認済
◎ 2枚目以降 前紙との変更箇所の確認。=確認済
◎ 心経会から正言講への名称変更の年=明治8年(心経会→明治2年祈年祭御営→明治8年正言講)
◎ 名字記載の初年=明治8年 名字数=21名 名字の呼び名の種類=11
◎ 慶應4年の確認 宮座名を漢字で書いてあるか=漢字
◎ 箱の裏の紙片の内容=確認(但し、信憑性はどうか)
◎ 講の回数/年=不明・旧1月だった 講日の変更は何年からか=明治8年
◎ 明治19年の確認 1箱目の最終年の確認=昭和51年
◎ 天明6年・明治8年の他に年2回記名している年は無いか=享保20年・寛文10年・8年
◎ 慶長18年〜元和2年の他に中止の講年はないかどうか=寛永11年・文化4年
〇 慶長18年〜元和2年の4年間記述無
〇 箕倉殿:粥柱0回
◎ ミノクラトノ(箕倉山城址碑)の存在・位置・意味関係は
◎ 明治8年・明治42年の茅原村の家数。(明治15年54戸)
◎ 宮座文書の1枚目を書き残そうとした先祖の意向とは何か。
◎ 元禄7年(1694) 検地によって名子独立の影響は?
茅原区は120戸・320人を数える。(2020年1月現在)