歴史 茅原村の位置
1336 後醍醐天皇吉野山に 南北朝時代始まる 大神神社高宮氏は南朝
1392 南北朝合一 足利義満の策略で神器が北朝に渡る
1428 正長の土一揆 以降土一揆が頻発
1483 戒重・十市両党の争いによって三輪郷全焼
1571 織田信長、比叡山焼き討ち
1574 織田信長、長島一向衆2万人焼き殺す
1579 信長の家来、山口秀景は「九月には、松井友かんとともに、信長より字治川平等院前に橋を架設するよう命じられた(信長公記)」…山口秀景書状天正七年十月八日大御輪寺宛
にも伺える(大神神社史料巻1)
織田信長の命令で宇治橋用に三輪山の木700本切る(多聞院日記)これまでは、神木として三輪山の木は守られていた。
この年以後大和国では戦火がなくなる
さらに「信長公記」によれば、12月石清水八幡宮の修復に、和州三輪山の材木を取り寄せたと書かれている。
(このとき、茅原村人が使役に借り出され、人口構成に大異変が起る。それが、 太閤検地時の土地保有者の数の多さ及び入作者の多さに現れていると考えら
れる。茅原村最大の危機だったかもしれない)
1580 織田信長の指揮下筒井順慶により大和は郡山城のみとなる。他は破却 興福寺に対し大和一国指出検地…これにより大和支配が完了した。 石山本願寺陥落…政教分離達成
1582 織田信長没6月
1583 筒井順慶が郡山城主
1586 豊臣秀長が郡山城主
1588 心経会(高宮の神社関係者10名だけだが、心経会の最初?と思われる) 目的は五穀成就 代々神への恩典報恩 豊臣秀吉の刀狩令…兵農分離・一揆防止政策
1595 太閤検地 茅原村377石 田畑所有者(茅原村102名 馬場村34名 高宮村28名 三輪8名 箸中7名 その他村7名)入作多し
1596 芝村領丸池と茅原村領の飛び地が交換。
1598 豊臣秀吉没
1600 関が原の戦い後 織田有楽斎が家臣千賀又兵衛に茅原村300石付与
1610 キタムラシンキヤウエノコト 始まる 9名
1611 長谷川氾濫 三輪村他1万石の損害旧暦5月
1615 大坂夏の陣後 有楽斎は五男尚長に柳本藩1万石 内に茅原村有り
1882 明治十五年 茅原村 54戸290人 総面積35町8反(田23町4反 畑7町7反 屋敷2町 山林2町5反 藪2反) 全国人口3700万人
多聞院日記 『天正七年十二月七日 三輪山ノ木、宇治橋ノ用七百本程キルトリ、毎日大物ニ引之、国ノ悩沈思〃〃、乍去橋ハ万民上下ノ忝事也』
平成十年の台風によって三輪山内に多くの倒木があった。確かに大木と思われる倒木も見られたが、それにしても、樹齢数百年以上と思しき大木の少なさを、登拝する度、不思議に感じていた。
何故なら三輪山は神奈備であり、木は神木であるから、伐られることは無いと考えていたからである。その理由が「興福寺多聞院日記」に書かれていた。
1579年(天正七年)700本の大木が宇治橋用材という名目で、織田信長の命令によって伐られていたのである。
1571年比叡山焼き討ち以降、宗教弾圧を強行し続けていた信長が、当時の先進地域大和国45万石の支配を目指していたことに、疑いの余地はない。
後醍醐南朝に与していた大神神社・高宮氏の膝元大神郷内の茅原村には、南北朝以来戦国時代にも、まだ少なからず武装した百姓が存在していただろう。村内箕倉山(といっても丘程度だが)に、
箕倉城(当時、大神神社五社家の一、箕倉氏築造)と呼ばれた見張り台様の砦があり、今も城跡に碑が立っていることが証である。
信長は宗教弾圧の一貫として、服従の証を大神郷の武装した百姓に強いたのである。大神郷中の全ての民が、神山と仰ぐ三輪山の神木を700本伐採する行為によって。きっと、空しい抵抗が あっただろう。16年後(文禄4年)の太閤検地帳をみれば、当時、面積28町歩石高377石の茅原村に他村からの入作者を含め、180名以上の地主の名が、記載されていることからもわかる。村は荒れた。
因みに近隣他村の石高と地主の数を大三輪町史(p169)から、下記に引用してみよう。(但し、他村入作者の石高を引いて自村人だけで表示。茅原村は大神神社所蔵の検地帳写しから、
私自身が調べた数字)
東田村 49人 406石
辻太田村 77人 410石
大泉村 114人 583石
江堤村 66人 498石
穴師村 61人 320石
茅原村 102人 211石
これをみれば茅原村の一人当たりの石高の少なさが、歴然としている。さらに不思議なこととして、屋敷数がある。集落の無い地域を村と呼ぶわけは無いので、屋敷の無い村などは無いはずだが。
東田村 19戸 辻太田村 46戸 大泉村 32戸 江堤村 23戸 穴師村 23戸 茅原村 3戸
以上のような戸数になっている。屋敷と呼べる家がほとんど無いほどに、茅原村が荒廃していた証拠である。
自給自足の時代、大人年間一人当たり、米で1石(150kg)の食料が要るといわれている。明治8年の調査では387石54戸279人と統計が残っている。明治八年は徴兵制度がつくられた年であるから、 この統計は信憑性が高い。
文禄4年(1595年)の377石から明治8年(1875年)の387石まで、280年間茅原村は、ほとんど石高が変わっていない。
この明治8年の数字を文禄4年に当て嵌めて考えてみよう。1戸当たり家族数は、5~6人。取れ高は約7石。半分が年貢として、3石5斗で子供から年寄りまでの5~6人を養っていたことになる。
太閤検地における茅原村の、屋敷が3・地主が102というのは、あまりにも不可思議なのである。
文禄検地帳の茅原村の地主とは、単にその土地を耕している者を、地主として記名せざるを得なかったと思われる。本来の土地の所有者としての、地主階級(本百姓)の多くが亡くなって、
その家族が崩壊していた可能性が高い。
織田信長による三輪山の神木700本の伐採は、茅原村の地主(武装した百姓)の多くを死に追いやり、その結果、後に残された者達が、てんでに生きるために田畑を耕して暮らしていたのだ。
文禄検地帳茅原村の不可思議と三輪山神木に樹齢の永さを見つけられない理由が、ここにわかったのである。
直木恵美子先生に菁々中学誕生の経緯を取材に行った。3年後輩の小倉真樹君と二人だった。編集委員長の彼がアポを取って、編集委員だった私が随行したかたちだったか。2000年のことである。
菁々中学50年の記念誌に掲載するのが目的であった。
畏れ多くも、孝次郎先生がコーヒーで若輩の我々二人を、もてなして下さった。申し訳なさに直立して深く頭を下げ「あ・あ・ありがとうございます」といったら、恵美子先生が「あなたたちは、
私のお客様だから、主人がお茶を入れるのは、当たり前よ。主人のお客様の時は、私が入れるんだから」と、平然と仰った。心の中では、かなり吃驚していた。
悲しいことに、先生宅に伺うまで恵美子先生のご主人が、あの当時、日本史の参考書でよく拝見する執筆者として載っている「直木孝次郎」先生だとは、まったく知らなかったのだ。
しかも、20年前と言えば御年80才。高齢の大先生に茶の接待をしていただいたのだ。もう取り返しはつかないが、エライ客になったものだ。出来ることなら20年前に戻りたい気分である。
唯一の、孝次郎先生の思い出。
安らかにお眠りください。
真なるものは、奪われることを望む。いくら奪われても減りはしないから、奪われて広がっていくことを望む。その意味で他を選別し排斥する考えは、真なるものではない。
宗教はもともと奪われることを望む教えであるはずだ。信仰する者は、まずこのことを肝に銘じて欲しい。
真を知られることを拒むのはおかしい。