あるじ の言いたい放題   2013




「ピアノを弾く男たち」

ピアノという尺度を持つ作者が、日常の出来事にもピアノを通じて関わり、息をしている。  
息遣いがわかる作品である。
「ピアノを弾く男たち」という題名に、まず惹かれた。
ピアノに囲まれた少女時代の環境から、男のピアノを撫で斬りにするシーンがいい。
一転して、男子医学生に自慢の鼻を挫かれる。
ここで語るプライドからの「・・・とても、対等に会話ができない。」が、またいい。
女子音大生の諦めにも似た、心の自己防衛の独り言だ。  
家庭では、ピアノ教室を開く先生としての顔が覗く。  
あくまでもピアノのことでは、偉そうにしていたい。  
一方で、国際音楽コンクールでの中学一年生の演奏に驚嘆する。  
「男の子のピアノっていい。大胆で、且つ繊細で、悪魔のような色気があって、恐ろしくテンポが速くて、惹きこまれてしまう」と。  
同じ中一生の息子を持つ親として、愕然とする。
そして「寝そべったままゲームをしている息子に、思わずケリを入れたくなった」のである。(><)



還暦

 言わずと知れた60歳のこと。赤いちゃんちゃんこの代わりに、娘に強請ってみた。ペイトン・マニングのユニフォーム。デンバー・ブロンコスのQBで、NFL最高の選手だと 思っている。なにせ監督も彼には指図できないくらい、アメフトの試合運びに精通している。似合うかな。別に似合わなくてもいいが。このユニフォームを着てマニングの試合を 観るのが楽しみなだけ。
 還暦を前に大切なことがわかった。人生の苦行・修行のことである。
 「バガヴァッド・ギーター」によれば、人は行為せずに生きていくことはできない。行為には、祭祀・布施・苦行の3つは必要(18章)である、と書いてある。確かに人はじっと してはいられない。病気になり入院し寝込めば、すぐ理解できる。
 苦行というのは、断食や不眠の行、沈黙の行や禁欲のことではなく、身口意を善くする行為のことだとわかったのである。苦行とは苦を行うことではなく、苦を取り除く行 為(方法)のことなのである。



シャングリラへ

 トンネルの手前がシャングリラ、向こうに見える世界が桜の園。何度か通った道だが、この季節は初めてである。いつか花の下を歩いてみたかった。それが実現した。
 この日の特別展は、古代ガラス。大英博物館が所蔵する2800年前の最古の透明ガラス容器はもとより、3500年前の古代エジプトの色鮮やかな表現は、現代の作家に少なからずショックを与えるに違いない。
 骨董という言い方ですましてよいのか、それ以上に深みのある色がしみ込んで観えるのだ。(ミホ・ミュージアム)



―パトカー初乗記―2012年度前期
       

 はじめに、パトカーは1950年から運用されているって知っていましたか。
 平成24年秋の交通安全県民運動も8日目の9月28日。午前7:30桜井警察署出発。運転手は交通課T係長。同乗者はK署長。桜井市内小学校区の通学路交差点で、交通監視にあたって頂いている街頭指導者への激励である。
 約1時間程度の巡回であるが、止まる度に後部座席のドアを、運転席から降りて、何度も開けていただいたT係長には、ご迷惑をおかけしてしまった思いが強い。何せ、チャイルドロック(パトカーの場合クリミナルロックというべきか)で内側からはドアが開かない。
 今年6月の総会で就任したばかりの、新前会長の私には、未知との遭遇の連続だった。
 街頭での広報啓発活動も3回参加した。
 一回目は、オープニング行事。松井市長による「卑弥呼の里・交通安全宣言」を皮切りに、桜井市のマスコットキャラクター卑弥呼ちゃんと、女性会員手作りの安全運転啓発物品をドライバーに配った。
 二回目は、我々安全運転管理者協会が主となる「飲酒運転根絶・ハンドルキーパー運動」の推進グッズを、桜井高校野球部の諸君とドライバーに配布。
 三回目は「飲酒運転根絶・夕暮れ時ライト点灯キャンペーン」として、奈良県トラック協会桜井支部の皆さんやナポくんと一緒に啓発物品を配布した。  
 安全運転管理者法定講習は9月4日に開催され、無知蒙昧の私に挨拶文等ご指導いただいた交通課Y部長に心から感謝している。
 この時も述べたのだが、奈良県初の交通事故による死者は、1912年(大正元年)で、今年で100年になる(奈良県交通安全協会「創立50周年記念誌」)。
 また、記録に残っている日本最初の交通事故死は、1907年同乗者4人死亡の運転未熟による、電柱追突事故だったそうで、世界初はというと1896年ロンドンで起きている。(日本最初の自動車事故は1900年、堀に落ちた単独事故)  
 ただ、県初の100年前の事故が、自動車の単独事故なのか、歩行者を轢いたのか定かではない。ご存知の方がおられたら、教えていただきたいのだが。  
 自動車が公道を走るようになって、100年以上過ぎた。最悪の交通戦争と呼ばれた年間交通事故死1万人以上の時代は、多くの関係者の努力で過ぎ去ったかに見える。しかしゼロになったわけではない。  
 本来「自動車は道を走ってはならない」。何故なら、歩行者の安心安全を脅かすから。だから免許証がいるのだ。  
 私たちはこのことを心に刻みつけておかなければならない。



カモメヅルの種

 12月に入ると登拝道に見つけることができる。豆類のように鞘(袋果)に入っているが、秋に袋果が割れ、種髪(毛束)をつけた種子がはじける。花期は7-9月で、まだ 観たこ とはないのだが、海星形の1pくらいの花が咲く。名のとおり蔓草で他の草に巻きついているらしい。毛束しかまだ観たことがない。3月頃まで毛束を見る。風の吹いた 翌朝が チャンス。冬の間は、毛束を探しつつの登拝を楽しんでいる。
 10年程前だったかTVに、奄美の離島にたった二人だけで住む、初老の夫婦が映っていた。サトウキビ を収入源にして、野良仕事に精を出している。インタビュアーが、夫に マイクを向けて「幸せですか」と聞いた。何かそんな空気感を見たのかもしれない。「これと一緒だか らね」と女房を振り返った。こんどは妻にマイク。「幸福ってなんだと 思いますか」。妻は確かめるように答えた「変わらぬ日々」と。二人は哲学をしている。変わらぬ日々 の野良仕事の中で。そう確信した。
 日が昇れば野良に出て、真上に来る前に帰宅し、昼飯済めば二人で大の字になって昼寝。また野良仕事。日が沈む少し前に、家に帰るの日々。変わらぬ日々の幸福を実感で きる人生を、送っているのが観えた。
 10年後のいま、だがしかしと、思う。この世を知らずに地獄に生まれたなら、変わらぬ日々とは責め苦のこと。幸福が変わらぬ日々であるなら、地獄の責め苦が幸福となる。 幸福とははたして求めるべきものだろうか。ふと、立ち止まらざるを得ない。色即是空。空には幸・不幸さえも、ただ相依縁起しているだけだと思った。


 魂には故郷がある。だから、初めて訪れた旅先の景色や、行ったこともない風景写真にも郷愁を感じる。それどころか、以前に来たことがあると錯覚を起こすことさえある。 ひょっとしたら、魂は入れ替わるのかもしれない。