あるじ の言いたい放題   2011




VIXEN


 ビクセンと聞いて天体望遠鏡を思い浮かべる人は、かなり、星に興味の有る方であろう。VIXENr130sfをアマゾンドットコムで買った。反射望遠鏡を実際に手にとって、夜空を見るのは初めてである。
 まずは、月のクレーターの鮮明さに驚く。そして、ちょうど傍にいた木星とその衛星(ガリレオ衛星)4個を発見。1610年にガリレオが初めて発見した木星の衛星を、400年後の今、自分が観ている事に感動を覚えた。
 土星もUFOの形をしていた。最もわかりやすい星である。明るく見えるベガも、100倍の望遠鏡では、一層瞬き輝く星にしか見えなかった。遠い遠い宇宙にいるのだろう。
 「つるちゃんの万能プラネタリウム」このHPに行き当たらなかったら、月と金星くらいしか見当がつかなかった。望遠鏡も「つるちゃん」のお薦めから選んで買った。全く見ず知らずの「つるちゃん」の世話になって、これからも「星を観る男」を続けていこうと思っている。カリクレス(「ゴルギアス」プラトン)に逆らって。



多聞院日記

  『天正七年十二月七日 三輪山ノ木、宇治橋ノ用七百本程キルトリ、毎日大物ニ引之、国ノ悩沈思〃〃、乍去橋ハ万民上下ノ忝事也』


 平成十年の台風によって三輪山内に多くの倒木があった。確かに大木と思われる倒木も見られたが、それにしても、樹齢数百年以上と思し き大木の少なさを、登拝する度、不思議に感じていた。何故なら三輪山は神奈備であり、木は神木であるから、伐られることは無いと考えて いたからである。その理由が「興福寺多聞院日記」に書かれていた。
 1579年(天正七年)700本の大木が宇治橋用材という名目で、織田信長の命令によって伐られていたのである。
 1571年比叡山焼き討ち以降、宗教弾圧を強行し続けていた信長が、当時の先進地域大和国45万石の支配を目指していたことに、疑いの余地 はない。
 後醍醐南朝に与していた大神神社・高宮氏の膝元大神郷内の茅原村には、南北朝以来戦国時代にも、まだ少なからず武装した百姓が存在して いただろう。村内箕倉山(といっても丘程度だが)に、箕倉城(当時、大神神社五社家の一、箕倉氏築造)と呼ばれた見張り台様の砦があり、 今も城跡に碑が立っていることが証である。
 信長は宗教弾圧の一貫として、服従の証を大神郷の武装した百姓に強いたのである。大神郷中の全ての民が、神山と仰ぐ三輪山の神木を700 本伐採する行為によって。きっと、空しい抵抗があっただろう。16年後(文禄4年)の太閤検地帳をみれば、当時、面積28町歩石高377石の茅原 村に他村からの入作者を含め、180名以上の地主の名が、記載されていることからもわかる。村は荒れた。
 因みに近隣他村の石高と地主の数を大三輪町史(p169)から、下記に引用してみよう。(但し、他村入作者の石高を引いて自村人だけで表 示。茅原村は大神神社所蔵の検地帳写しから、私自身が調べた数字)
 東田村 49人 406石  辻太田村 77人 410石
 大泉村 114人 583石  江堤村 66人 498石
 穴師村 61人 320石  茅原村 102人 211石
 これをみれば茅原村の一人当たりの石高の少なさが、歴然としている。さらに不思議なこととして、屋敷数がある。集落の無い地域を村と 呼ぶわけは無いので、屋敷の無い村などは無いはずだが。
 東田村 19戸 辻太田村 46戸 大泉村 32戸 
 江堤村 23戸 穴師村 23戸 茅原村 3戸
 以上のような戸数になっている。屋敷と呼べる家がほとんど無いほどに、茅原村が荒廃していた証拠である。
 自給自足の時代、大人年間一人当たり、米で1石(150kg)の食料が要るといわれている。明治8年の調査では387石54戸279人と統計が残っ ている。明治八年は徴兵制度がつくられた年であるから、この統計は信憑性が高い。
 文禄4年(1595年)の377石から明治8年(1875年)の387石まで、280年間茅原村は、ほとんど石高が変わっていない。
 この明治8年の数字を文禄4年に当て嵌めて考えてみよう。1戸当たり家族数は、5~6人。取れ高は約7石。半分が年貢として、3石5斗で 子供から年寄りまでの5~6人を養っていたことになる。
 太閤検地における茅原村の、屋敷が3・地主が102というのは、あまりにも不可思議なのである。
 文禄検地帳の茅原村の地主とは、単にその土地を耕している者を、地主として記名せざるを得なかったと思われる。本来の土地の所有者と しての、地主階級(本百姓)の多くが亡くなって、その家族が崩壊していた可能性が高い。
 織田信長による三輪山の神木700本の伐採は、茅原村の地主(武装した百姓)の多くを死に追いやり、その結果、後に残された者達が、てん でに生きるために田畑を耕して暮らしていたのだ。
 文禄検地帳茅原村の不可思議と三輪山神木に樹齢の永さを見つけられない理由が、ここにわかったのである。


1336  後醍醐天皇吉野山に 南北朝時代始まる 大神神社高宮氏は南朝
1392  南北朝合一 足利義満の策略で神器が北朝に渡る
1428  正長の土一揆 以降土一揆が頻発
1483  戒重・十市両党の争いによって三輪郷全焼
1571  織田信長、比叡山焼き討ち
1574  織田信長、長島一向衆2万人焼き殺す
1579  信長の家来、山口秀景は「九月には、松井友閑とともに、信長より字治川平等院前に橋を架設するよう命じられた(信長公記)」…山口 秀景書状天正七年十月八日大御輪寺宛にも伺える(大神神社史料巻1)
織田信長の命令で宇治橋用に三輪山の木700本切る(多聞院日記)これまでは、神木として三輪山の木は守られていた。 (このとき、茅原村人が使役に借り出され、人口構成に大異変が起る。それが、太閤検地時の土地保有者の数の多さ及び入作者の多さに現れていると考えられる。茅原村最大の危機だったかもしれない)
     この年以後大和国では戦火がなくなる
1580  織田信長の指揮下筒井順慶により大和は郡山城のみとなる。他は破却
     興福寺に対し大和一国指出検地…これにより大和支配が完了した。
     石山本願寺陥落…政教分離達成
1582  織田信長没6月
1583  筒井順慶が郡山城主
1586  豊臣秀長が郡山城主
1588  心経会(高宮の神社関係者10名だけだが、心経会の最初?と思われる)
     目的は五穀成就 代々神への恩典報恩
     豊臣秀吉の刀狩令…兵農分離・一揆防止政策
1595  太閤検地 茅原村377石 田畑所有者(茅原村102名 馬場村34名 高宮村28名 三輪8名 箸中7名 その他村7名)入作多し
1596  芝村領丸池と茅原村領の飛び地が交換。
1598  豊臣秀吉没
1600  関が原の戦い後 織田有楽斎が家臣千賀又兵衛に茅原村300石付与
1610  キタムラシンキヤウエノコト 始まる 9名
1611  長谷川氾濫 三輪村他1万石の損害旧暦5月
1615  大坂夏の陣後 有楽斎は五男尚長に柳本藩1万石 内に茅原村有り
1882  明治十五年 茅原村 54戸290人 総面積35町8反(田23町4反 畑7町7反 屋敷2町 山林2町5反 藪2反) 全国人口3700万人




おはた

 茅原正言講が下記のように、慶長十五年「心経会」として営まれていたことは既に書いた。明治元年の廃仏毀釈(神仏分離令「明治政府 の祭政一致政策による」)によって「祈年祭」に、さらに明治八年現在の「正言講」に名称変更したことも既に記した。


『キタムラシンキヤウエノコト        北村心経会之事
 ミノクラトノ ヒカシキヤウフ         箕倉殿  形部 
 キタエモン ウコ               衛門  うこ
 ヨ一了 セン四了              與一郎  善四郎
 ヨ七 才二了                與七  才二郎
 カ井ハシラヨ八了                粥柱與八郎
 キタムラヲノヲノ               北村各々
 キヤウチヨ十五子ンカノトノ井ヌ正月十一日  慶長十五年庚戌正月十一日』


 ところで、一行目に北村心経会と表示しながら、最後にも北村各々とわざわざ2回も村名を書いたのは、何故だろう。北村各々と書いてあ るのは最初の2年だけなのだが、少し気になって調べてみた。
 「大神神社史(昭和50年発行)」によれば、馬場の心経会《1610年から記録あり》も高宮の心経会《神社史には茅原の心経会と誤記されて いる。高宮から明治年間に茅原に転居された細川氏<明治以前、大神神社に奉仕されていた社人>が、この心経会の巻子本を持っておられ、 昭和の後半まで個人で心経祭祀をされておられたからだろうと思われる。この巻子本には1588年「天正十六年」から心経会の記録があった。 (残念ながら、今この巻子本は存在しない)但し、この心経会は、大神神社の社家・禰宜等、神社関係者の心経会だった》も、この慶長十五 年には正月十一日に営まれていた。どうやら、大神神社の氏子である各村々が合同で営んでいたようなのである。その意味で北村各々と記さ れているのではと推察した。


 明治元年十二月の記録(大神神社史料・第一巻)によれば、金谷村・上市・下市・箸中村・茅原村・芝村・馬場村の5ケ村2地域が御旗 心経会を行なっていたが、維新により心経会を廃止し、祈年祭に改めるにあたって、用意する備物等を奉行に報告している。


 御奉行様
 祈念祭御備物掛合之控
 一 御幣  壹本 但シ散米三合三勺・・・・・・神前に撒く米
 一 御神酒 壹樽 但シ二升樽
 一 御供餅 百三面 但四合餅
 一 鹽鯛  壹掛・・・・・・・・・・・・・・・塩鯛
 一 鹽鰯  貮拾枚・・・・・・・・・・・・・塩鰯
 一 麻苧  貮拾目・・・・・・・・・・・・・麻布
 一 豊嶋  貮枚・・・・・・・・・・・・・・・豊島ゴザのことか
 一 熨斗鮑 壹連・・・・・・・・・・・・・・薄切乾燥鮑
     以上
 一 従中古毎年正月十日御旗建、十一日夜二ノ鳥居ニ而心経祈祷相勤来候處、今般御一新ニ付、前條目録之通ニ而祈念祭可致候様、従大宮 神役松村幾右衛門江被申越候間、此段五ケ村長中江及披露候ヘハ、永〃之事故減少之儀被申談候間、再應及掛合候處、尤之儀半通ニ而備物等 可然儀ニ付、明治二巳年正月十一日相勤申候、
 一 御供餅之儀者百三面之處、為手當餅外七面都合百拾面持参致改請取申節、残餅七面者其村〃江取戻シ、其村〃より七面宛神勤松村幾右 衛門方へ持参可被致筈ニ相定候事、
 一 為神用木壹ケ村江貮本宛 但シ切様ハ七尺一間二口者板木與致、残木者薪與致、永々御附渡ニ相成候事
 戊明治元年(一八六八)辰年十二月………慶応四年九月八日から明治元年
 金谷村 山添甚兵衛
 上 市  嶋田善三郎
 下 市  粟田九兵衛
 箸中村 植田甚兵衛
 茅原村 池田小四郎
 芝 村  南元武右衛門
 馬場村 西口長三郎
 前書之通及掛合相済申候、以上、神役 松村幾右衛門(P534〜535)
    中略
 祈念祭御祈祷在来候処、何等の儀有之候哉、天正之頃より十二宮七曜九曜廿八宿星祭 行立之儀御旗心経與是迄勤来候処、此度御一新ニ 付、明治元辰年之御旗心経之儀被廃 、往古有来三輪之社御祭方ニ被致候様被仰出候ニ付、明治二巳年正月十一日始テ
 祈念祭御祭之儀式備物等、五ケ村長中より御神酒御供物持参ニテ相勤無滞相済申候、 以上、(P536)


 ところで、この文書には、7地域の代表者の氏名が記されている。最早明治八年の苗字解禁を待つことなく、姓が使われていた。しかも7 名の代表者だけでなく、参加者62名が姓名を記名し押印している。因みに、茅原村の参加者を明治二年の正言講員と共に記してみよう。


『茅原村長中名前  池田小四郎 西口新次郎 西口清三郎 嶋岡惣四郎 西崎喜兵衛 池田與八 郎 嶋岡庄兵衛 嶋岡善太郎 嶋 岡弥兵衛 池田惣右衛門 乾與市郎  味波武助 増田幸助 増田庄助  嶋岡弥七郎 〆十五軒外十四軒者別帳ニ有之』(史料P537〜538)


『祈念祭御営 清三郎 庄兵衛 喜兵衛 惣右衛門 善太郎 弥治兵衛 幸助 新次郎 九右衛門 与市郎 惣四郎 与八郎 小四郎 弥七郎  庄助 明治弐年 巳正月十二日 粥柱 武助』(茅原正言講巻子本)
以上、正言講員で2,3名の名が無いが、別帳にあると思われる。


 【ここまで来て私は茅原正言講中における我が家のルーツが、此の祈念祭の時点、つまり明治に入ってからなのではと思い至った。何故な ら、上記には北村の名が無く、正言講巻子本を辿っても明治八年の北村清次郎から、過去には遡れないからである。確かに寺の過去帳によれ ば、手元にあるのでも200年以上遡れるので、江戸時代には住んでいたと思われるが、心経会には参加していなかったようである。
 多分、この明治二年祈念祭参加者29名(〆十五軒外十四軒者別帳ニ有之)の一人として茅原村から参加したことが、後(明治八年)の正言 講入りのきっかけになったと、いまでは考えている。さらに、母が祖祖母タカから聞いた聞き覚えによれば、この清次郎は同じ村からの婿養 子であって、実家は現在茅原にはもう無いのだが、当時正言講員の西口家だったようなのである。真偽の程は、いまとなってはわからない】


 ところで、心経会は、十日に旗建てをして、十一日夕方に心経を読誦していたと記されている。心経会記録でもっとも古いのは、前記した 1588年(天正16年)である。しかし、いつから正月十日御旗建・十一日心経会となったかは不明。
 「三輪神社独案内(大神神社史p539)」によると旗は7本、「五穀成就」の旗で、それ故「御旗心経」と呼ばれていたらしい。我々が正言 講のことを「おはた」というのは、多分このことに由る。
 また、十一日夕方に心経を読誦していたのであるから、「キタムラシンキヤウエ」の十二日というのは、粥柱の交代儀式と御旗心経会の 「直会」の日であった可能性が高い。茅原正言講巻子本によれば、慶長十五年は正月十一日・十六年は正月十日・十七年から正月十二日と なって明治八年までこの日で営まれている。



中和と除去















      君を忘れない曲がりくねった道を行く・・・

 一旦生まれればその一生は一切皆苦。人生も半ばを過ぎれば、生きていくためとただ観念する。人は苦を乗り越えようと努力してきた。 ひとつの障害を越えた喜びが苦を中和し、次の障害も克服する気力になる。こうして神に召されるまで、多くの人は苦を喜びで中和して人生を 歩む。しかし、この姿勢からは、苦が無くなることはない。百歳を過ぎた祖母が在りし頃、見舞いに来た老いた子供に口をきく。寝返りも打て ない身体の喉の奥から擦れたか細い声を出す。大丈夫だと気を使っている。身体の苦を子供に会えた喜びで中和しているのである。気が確かな ら苦は死ぬまで存在し続ける。例え身体が健全でも、親になるまでは自分の進路に悩み、親になれば子の進路に悩む。生のありとあらゆること に悩みは尽きない。喜びで中和する苦は消えることはない。
 真人は苦そのものを除去しようとした。生きていながら。苦の元になるものすべてを捨てる。これを出家という。
 幸福の手法がふたつある。仏陀の「苦の除去法」とソクラテスの「神の友法」だ。但し、そのどちらもムズカシイ(><)