の言いたい放題
2008
悪魔パーピマンがいった、「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜び
である。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」
師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着す
るもとのもののない人は、憂うることがない。」(スッタニパータ)
牛とは財産のことであり、師とは仏陀のことである。話は飛ぶが、仏教では、悪魔は煩悩と解釈される場合がある。喜びか憂い
の(苦集滅道)か、どちらを選ぶか。どちらが幸福か。
凡人にとって、喜びは捨てがたく、憂いを無くす修行は厳しい。
そこで考え出されたのが、帰依。悟りの境地を得た如来や菩薩に帰依すること。仏陀にどこまでも着いていくことによって救われるとい
う考え。
次に帰依の証が必要になる。これが布施と信仰である。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に南無(帰依のこと)することをいう。南無阿弥陀仏
と唱えることは、阿弥陀仏を信仰していますと同義になる。そして布施は、執着を捨てる姿勢を象徴している。
仮説によって説明され謎が解けることがある。1+1=2を仮説としてはじまる数学や物理学は、多くの謎を解き明かし、人類の文明を進化 させてきた。しかし、あくまでも1+1=2は、仮説なのである。なぜなら、1も2も+も記号であって、どこを探してもこの世には見つからな いし、落ちてもいないから。だからこれは、人類共通の仮説であって、実体ではないと思っている。ところで人は、五感で感じることを実体だと 思っている。目に見え、耳に聴こえ、舌で味わえ、鼻で嗅ぎ、手で触れることができるものを、実体だと思っている。しかし、これも人類共通の 仮説だと気づく。実体とは、純粋に考えれば、生まれ死すものではない。永久不滅不変のものでなければ、実体とは言えないと思われるから。
晩秋の神奈備登山道で団栗を踏みそうになった。ひょっとしたら、踏みそうになって踏まなかったことは、必然のことだったのでは、
と頭をよぎった。この世の全てのことは、必然なのかもしれないと。運とか、偶然とか出来心とかでもなく、神の創造の必然として進んでいるの
ではないか。さっき、くしゃみをしたことも、今この文章を綴っていることも。歴史に名を残した人物のしたことも、勿論。誰しもの思いや、話
したこと、一挙手一投足さえも。
ひとひらの枯葉の落ちた位置や、紅葉の度合い、落ちた時刻や落ち方まで、人間には偶然のことで、計算されてこうなったようには思えないこ
とも、必然として、この時代この位置この時刻に落葉したに違いない。だから、私たちも生かされていると言えるのではないのか。空気や水が土
や光が与えられているからだけでなく。宇宙の隅々までが、神の意思の必然として、生かされていると直感したのである。明日産まれようとも、
明日黄泉に旅立とうとも。惜しいところで万馬券を逃すことも(^^)