あるじ の言いたい放題   2007




8R・9Rライオンズクエストセミナーに臨んで

 台風4号の接近という厳しい天候の中、8・9リジョン18クラブから50名を超える参加者があった。八嶌前地区ガバナーの、前年度からの熱意が実った 観を呈している。私の所属する8R1Zの桜井ライオンズクラブからは、会長L矢谷寛・幹事L北村克明・青少年YEライオンズクエスト委員長L堤野芳次の3 名が臨んだ。
 2007年7月14日 キャンパスプラザ京都4>階で13:30から、地区ライオンズクエスト副委員長L岸田守弘の司会で静かに開会。まず、名誉顧問会議長・前地区 ガバナー・335複合地区ライオンズクエスト委員長L八嶌隆が、挨拶に登壇。一転してL八嶌の口角泡を飛ばす熱弁が、参加者を惹きつける。
 「未来という言葉にもっとも相応しい子供たち。彼らの健全育成こそが、ライオンズクラブの最大の目標とすべきだ」と、医者として高齢者医療に関わる過 程から洞察されたようである。流石に見識という他は無い。
 研修会は、地区ライオンズクエスト委員長のL足達靖彦が、自身教育現場に従事する立場から、多角的に講義された。
 「ライフスキル(生きる力)を子供たちにつけさせる教育のこと。それがライオンズクエストプログラムである」と、わかりにくいクエストの定義を明解に 結論付けられたのが素晴らしい。
 無論教育に関わるのは、教育現場の教員であるから、ライフスキルを子供たちにつけさせるこのクエストは、まず教員のためにある。そこで次に、ライオン ズクエストワークショップに話が進む。
 ライオンズクラブが主催するクエストワークショップは、小・中学校の先生を対象に2日間18時間にわたって行われ、麻薬患者の更生プログラムを基にした、 100%体験参加型の教育講習である。机上の教育ではないということが、最大の特徴であり、参加者全員がもれなく発言・体験する教育プログラムなのである。
 8・9リジョンで開催される今年度4回のワークショップには、是非とも先生方の参加を促し、L八嶌の熱意に報いたいものだと講習会場をあとにした。



雨蛙と熟し柿

 トマトのように見えるけど
 正真正銘の富有柿
 雨が降るまで隠れている
 いつまで我慢出来るだろうか



We Serve2

 each otherをつけたい。「われわれは奉仕する」ここに重大な漏れを感じた。何に対して奉仕するかだ。一般的に奉仕の対象は社会と考える。 ところが、社会奉仕を金科玉条として集まっても、運営に関わるのもメンバーである。誰が役職を担い、汗をかくかは、重要な問題となる。そこ では、会員相互間のWe Serveこそが、大切なことに気が付く。言い換えれば「われわれは“お互いに”奉仕する」が、第一歩でなければならない。 また、会員相互に、これが全うされなければ、社会奉仕など到底できるはずも無い。
 つまり、会員相互間の奉仕を基礎とした社会奉仕が、ライオニズムなのである。
 創立者メルビン・ジョーンズ(M・J)が最初、会員であったある実業団体に発見したものも、会員相互の奉仕であったに違いない。
 さらにM・Jが奉仕という言葉に観たものは、もっと大きな可能性を秘めたことだったのではないのか。それは世界中の人々がお互いに奉仕しあう、 ユートピア社会の誕生を夢想していたとはいえないだろうか。
 I Serve では、富裕者の独り善がりが垣間見える。ライオンズクラブ(LC)のWe Serveにこそeach otherが似合う。65億の全人類が、LC会員に なり、We Serve each other(われわれは、おたがいに奉仕する)を実践したとき、世界は真の平和を獲得し、楽園となるのである。



発情期

 他の生き物には有るが人には無い。人は365日Hが出来る。この進化が人を創ったように思える。そしてこれは神のみぞ知る突然変異。また、人が 知を授かった理由にも思う。この知は知以前の知と考えられなくも無いのだが。それは倫理や道徳と現在呼ばれるものである。
 春に発情する生き物は多い。 冬の眠りから覚めた喜びも加味して、子育ての進行方向が実りの秋に向かっていくことが、最高の条件なのだろう。彼ら にとってセックスは100%子づ くりで、当然雌が主導権を握っている。雌が発情しなければ雄は寄ってこない。発情期の雌の持つフェロモンが同種の雄をよぶのである。他種の雄には何 の魅力も無いというのが凄い。雌にとっては発情期がすむと雄など邪魔者以外の何者でもない。却って餌とりのライバルになるかもしれないくらいだ。
 さて話を人に戻そう。何故人は発情期を無くしたのか。それとも発情期が無くなったから人になったのか。私には突然変異で、発情期を無くしたことが 人の誕生を生じさせたように思える。
 寿命や成長のスピードも関係あるだろうが、例えば、犬なら発情期は年2回。犬の発情とは生理のことを言い、もっ とも妊娠しやすい時期のことである。だとすれば、人なら年13回はチャンスがあることになる。発情期にはその種独特のフェロモンを発散して雄を呼ぶら しい。なお、雄は人間も同じで雌が発情していればいつでもできるらしい。もっとも人間の男はそれをとおりこして女性の発情期などお構い無しになって しまった。
 発情期を無くした人間は、四季のいつでも赤ちゃんを産め、子育てが始まることになった。妊娠中や乳飲み子の子育て期間中に、人としての 倫理・道徳 がなかったら、どういうことになるかは明らかである。乳飲み子は、生まれてすぐ立つこともできない、ましてや歩くことなど一年も先だ。 「子は育たな い」である。
 兎にも角にも、人の最初は、突然変異により発情期を無くした女性からであり、アダムの肋骨からイヴが創られたというのは、 嘘だと確信している。



数えきれない

 一生、順に数を数え続けたとしたら、いくつまで言えるだろうか。1,2,3、…と。最初は早口で一秒に5(5個)まで言えたとして、数が大きく なると、一秒に1個言えるかどうか疑問である。例えば9千9百9十9万9千9百9十9と一秒では言いにくいからだ。とりあえず一秒に1個言えるとし て、人生100年では、60×60×24×365×100=3153600000となる。人生の3分の1を睡眠と食事に充てれば、21億240万ま でしか、順には数えきれないのである。
 つまり人間にとって、数えきれないとは20億を超した数のことを言うのだ。意外と少ない印象を受けてしまうが、 実際5分間でもやってみると実態がわかる。お風呂で子供に、一から二十億まで数えたら出ていいよ、とでも言おうものなら、一生出られないことになる わけだ(^。^)。
 順に数えるなら20億が限界の数も、観念の世界では一兆だろうと一無量大数だろうといくらでも想像できる。
 数字だけで考えれば、 物体のこの世の数の限界、20億を超えた数の世界が、次の世の肉体を離れた精神世界への入り口かもしれない。私たちが思う、 肉体を離れた精神だけの 世界が、やはりすぐそこに存在していると思えてくる。



きんつば

その名もずばり「出入橋きんつば屋」
皮の薄さと甘さ控えめ小豆餡のハーモニー。
何度買いに行ったかわからない。
構えの可愛い和菓子屋さん。
店の前では生唾ゴックン。
家に帰るまで待ちきれなーい。
いくつでも食べられる上品な味。
でも大きさも上品なんだよねぇ。
だけど、高速の高架が…(´・ω・`)



喜八州の花ぼたもち

阪急十三駅を降りて100m程行くと右手にこの店がある。
かなり大きな和菓子屋だが、花ぼた餅が僕のお奨め。
6個入りで960円。
持てばその安さが伝わる。
いやいや、美味さもだ。お試しあれ。(´・ω・`)



0=∞

 1−1=0 不思議な答えだと思ったのは、ごく最近だった。小学生でも、誰もがこう答えるだろうに。よく似て単純な算式1+1=2とは、また違った 混乱が起こる。林檎1つにもう1つ林檎を加えると林檎は2つ。視覚に、確かに林檎は2つある。想像の世界でも、林檎さえ知っていれば、2つの林檎を脳裏 に描ける。しかし、1つある林檎を誰かが取ってしまうと、林檎が0というのは、どうなのか。1という数字に林檎を1つおき、2という数字に林檎を2つ置 き換えることは出来ても、0には林檎を置くことは出来ない。つまり取られた林檎が0という空間から、逆に林檎は想像できない。何故ならこの0の空間には、 林檎であろうと蜜柑であろうと宇宙であろうと、何を持ってきても、何を想像しても構わないからである。つまり冒頭の引き算は、そこに有った林檎を知って いるものだけが、答えられる算式になる。最早、足し算の抽象ではすまない、想像を絶する引き算の世界が、頭を混乱させる。確かに目の前に林檎は無く、0 なのだが、この0には何を置き換えてもよい無限大の0になるのである。0=∞。私たちが思う0は、無という0だが、本来0とは無限大の神の世界のことな のである。極言すれば、神は0という無限大の世界に、この宇宙を創造されたというわけだ。そしてまた今日、神が人の心から離れた理由が、文字「0」の誤 解であり、解「0」の算式にあるように思えて来た。



人の4つ

 知恵と倫理と宗教と本能。人の特徴は知を働かせること。哲学つまり学問することが最大の特徴だといわれている。今では3歳の幼子からお勉強がはじ まり、生涯教育と称して死ぬまで続く。個人的にはこれが一番辛い。しかし、知が何故人に与えられたかを思うとき、快楽に生きる為の悪知恵としてではなく 、ソクラテスの言うように、神の友となるためであることに異論は無い。
 人が社会を形成して生きていくとき、暗黙のうちに守らなければならないことが倫理 ・道徳。集団生活を営む上で絶対必要なものである。これは畢竟、子育てによる。産み捨ての生物界には、多分不要であろう。
 一方、一個の人間として自分を 見つめたとき、人生の心の支えとなるのが宗教。信仰と言い換えればわかり易い。凡人にとって信仰とは、念仏を唱えること。 雑念を払拭して精神を統一する には、念仏を一心に唱え続けることが最善である。一切皆苦の生を全うするには、欠かせない。
 本能はこれとの葛藤が存在するという意味で、人独特の構成要素として欠かすこ とはできない。しかも、ファーブル先生の仰せの通り、本能は絶対に誤りを犯さないものなのである。肉体の継続のために。



振り返れば

 昨年は2人の同級生が他界した1年だった。運動センス抜群の萩原。たかだか200坪の中庭運動場でバレーのトス練習。球の吸い付き球離れの 素晴らしさに、入学当初から、そのセンスに驚愕した。周りを見る目の確かさと判断力が彼の真骨頂だった。しかも勉強も出来た。それなのに何故。可愛すぎ て憎めない奥谷。柔道部?冗談だろう。ずんぐりむっくりの童顔。どうみても機敏とは、強靭とはかけ離れた運動神経の持ち主。まあ、人のことは言えないの だが。それでも勉強はできた。それなのに何故。否、もっと不思議なのは、無能が服を着て未だ生きている自分か。@^^@



死期がわかれば、そして

 今すぐなら「神の栄光が地上に満たされますように」と祈ろう。明日なら、仏陀の「スッタニパータ」を読もう。1週間あれ ば、仏陀の「スッタニパータ」「ダンマパダ」とファーブルの「昆虫記」が読めるだろう。一生の一切を振り返ることなく、本能の命じるままに生きる昆虫た ちに感動し、感謝を捧げながら、一点の曇りも迷いも見出せない真人仏陀の言葉に帰依したい。



山川草木悉皆成仏

 善峰寺HPによれば、勿論草や木が功徳を積んで仏になるという意味ではなくて、私たちが功徳を積んで仏になることによって、草木も仏になると説明 されている。確かに人は、生きるためとは言え、殺生を繰り返し、食べ続ける。他の命を奪って生きる人が、成仏しなければ、彼らが浮かばれないと考えるの は正当だろう。また、成仏するために私が功徳を積めば、周りにも影響を及ぼし、彼らも成仏できると思うのも然りだ。
 しかし、そうだろうか。人類はせいぜい500万年の歴史を刻む生物。草木のほうが遥かに永いはずだ。草木が成仏するからこそ、人間も成仏できると考 えるべきではないだろうか。人に比して、踏まれても刈られても、文句の一言も言わぬ草木が、成仏するのは当然である。
 ただ仏門僧籍にあるものにとっては、生きながらにして悟りの境地ニルヴァーナにいたる修行が必要であるから、功徳を積むことが強く要求されるのだろう。
 私たち凡人は、素直に山川草木悉皆成仏を信じ、この宇宙に生まれたすべてのものは成仏できると考えるほうが、気がすっきりする。また草木の力によって、 人も成仏が可能になると考えるべきである。だからこそ、素晴らしい庭園を持つ寺院が多いと言えないか。周知のとおり、善峰寺も枝振り世界一の松があり、 眺望は遥かに広がっている。



哲学

 哲学とは心の中に棲む幸福を探す旅のこと



祖母さんが逝った

 箕輪キン。2007年1月10日逝去。享年104歳。
もう、ばあさんの”ようきたのう”の声が聴こえない。



親子のメール交換

かな: 授業で、病気になったときに、生き甲斐があったら回復しやすいって話があったんですが、望ましい死に方を考えたときに、死ぬ覚悟をしなが ら 生きようとするのは難しくないですか?生き甲斐と死にがいは矛盾しないのかなあと。生死が表裏ってのは分かるんやけど、難しく思えて。稚拙な質問 で申 し訳ないですが、気になってしまったので、聞いてみた次第です。よろしくお願いしますです。


かつあき: これをどう思う。愛は死。恋は生。恋はドキドキだから絶対生。生を否定できない。愛は神の世界だから、死んでも存在している。勿論肉体 だ けのことだけど。つまり生き甲斐というのは恋のこと。恋をしてれば、回復は早い。人間にとっての死に甲斐も恋のことになるから矛盾はしない。恋の レベ ルでの話しに他ならない。神の愛の死とは別。


かな: 「愛は神の世界だから、死んでも存在している。」ってのと、「人間にとっての死に甲斐も恋のことになる」っていうのが、分からないです。


かつあき: 愛は与えること。無償で。空気や水は、善悪を問わず誰にでも与えられている。これが愛の本質。赤ちゃんを育てるお母さんと似ている。これは 神の世界。だから愛を一言で言えば神。神は不死だから当然人が死んでも愛は存在する。 あの世で一緒になろうといって死ぬ死に甲斐のことが恋。心中みた いなものだな。恋のために死ぬ死に甲斐。人間にとっては、死に甲斐も生き甲斐もみな恋のなせる業だ。


かな: ふむ、分かりやすい説明どもです。ただ死にがいはまだよく分からないです。死にがいは死ぬ覚悟みたいなんやんね?死にがいと生きがいが同じ次元 の話なんは分かるんやけど、同時に存在したらしんどいかんじがします。


かつあき: 覚悟だろうとなんだろうと、その根源にあるのは恋心だってことだ。そしてこの恋心は男女関係だけでなく、趣味や仕事にも持つのだ。@^^@


かな: 根源が一緒やったら矛盾しないもんなんー?分かるような、分からないような・・・。


かつあき: 生死は一体だってことだ。コインの裏表みたいなもの。個としての自分しか理解できないものには、わかりづらいかもしれない。ただこの生死表 裏一体の観念は、男より女のほうが、理解しやすい。なぜなら、子供を産んで育てる行為の中で自然と身に付くから。女はその意味で得。


かな: 生死のは分かるような分からないような・・・まあまだまだってことかなと。


かつあき: 人は肉体も精神も一歩一歩成長し衰えていく。生死もこの流れにのっている。慌ててもわからんものはわからん。矛盾は学問の世界のこと。知恵 が無ければ矛盾など無い。ほかの動物と同じように、他を食べて生きていることに矛盾を思わず本能のみの無知でよい。


かな: あー、なるほど、そうですね。感覚でなんとなく分かる気がします。