の言いたい放題
2006 それは小さい女の子でした。その子は兄さんと姉さんの首にかじりつきました。なにかとても大事なことを話しにきたのです。でもそれは、ないしょ
で言わなければならないことでした。
「あたしたち、今夜ね―なんだと思う?―あたしたち、今夜ね。
あたたかいジャガイモがたべられるのよ!」
そして女の子の顔は幸福に光りかがやきました。ろうそくがその顔をまともに照らしました。(アンデルセン童話集)
貧しさと小さい子が教えてくれるカタルシス。これを読んだときすぐに頭に浮かんだのが、宮本常一「家郷の訓」(岩波文庫)の表紙だった。おばあさん
が孫の手をひいて海岸を歩いている。小学校の校庭にあった二宮尊徳像の何倍もの薪を背負って。右手に白い杖。左手に孫の手を握り、優しく孫を見つめて
いる。竈や風呂の焚き付けに使うのだろう。ガスや電気など夢のような時代。しかし、高だか百年に満たない昔のこと。離島小島に住む人たちにとって、砂
浜に流れ着いた流木は貴重な燃料だったに違いない。子守を兼ねての薪拾いである。
私達は忘れている。桁違いの辛い重い貧しい過去を生き抜いた先人の人生を。先人のカタルシスの延長線上にあるからこそ、神に許されて今生きていられ
るということを。
克弥が会計士論文式試験に合格して、監査法人面接用にとスーツを買いに11月21日帰省した。多分これが最後の甘えになるだろう。孫の独立。
母はこれが寂しいらしい。母といえば、明日香の義母が、8日他界した。7日、朝食嘔吐後、食事が喉を通らなくなり、21時救急車で病院へ。日
付が変わるのを待つように黄泉の世界に旅立った。享年85歳。引き際が美しすぎると、瞼が閉じられた顔を見て、心が呟いた。あと2週間蝋燭の
火が灯っていれば、報告が出来たと残念でしょうがない。
ネット社会の凄さが20日。合格発表が9時財務省に掲示されるや、見にも行かずに9時3分には無事合格を電話してきた。「確かめて来い」と、
つい怒鳴ってしまった。ネット上の誤報や嫌がらせが、あまりにも多いからだ。11時財務省の掲示板前から確認の電話。肩の力が抜けた瞬間である。
翌21日9時30分ネットで官報に載った名前を確認。10時過ぎには合格証書が郵便で着いた。11時半桜井駅に迎えにいく。初めて息子と強い握
手を交わした。
ダーバンにするか。スーツ2着・Yシャツ3枚・ネクタイ1本、〆て19万円なり。健闘を祈る!
紅蓮地獄に落ちたものが、ここに滞在する期間である。聖者を誹ったり親を殺めると、この地獄に落ちるといわれている。宇宙物理学者は、地球の ある宇宙が誕生してから、137億年くらいだと語る。冒頭の「仏陀の言葉」(スッタニパータ)にある、気の遠くなるような紅蓮地獄での永さ、何故永久 という言葉を使わなかったのかが、気になっていた。が、答は簡単だった。地獄からは、出られるからである。出られる以上何年間かを説明しなければ ならない。仏陀は優しい。わかりやすいように、数値でそれを私達に教えてくださったのだ。
人の憧れの、最大のものは不老不死。社会で成功し、冨や権力を握れば握るほど、一層不老不死の観念に捉えられる。秦の始皇帝のように。
ところで、不老不死といえば、神のこと。完全無欠、真・善・美も神のこと。なのに、何故神は、この世を創られたのか。全知全能をもつ神が、
この不完全極まりない世界を創られたのか。あまりにも不思議だった答が、突然浮かんだ。
それは死。
神の憧れが、人とは真逆の死だからなのでは。ところで死は、それ自体では存在し得ない。誕生があって死の存在が確かなこととなる。それ故、
生死の世界は継続を本能として、インプットされているのではないか。また、不死なる神がつくられた以上、生死の世界の流転も永遠に続くと
考えられる。
心に光が射した一瞬を思い出した。プリウスを駆って東大寺学園近く、街のT字路で左右を確認。左手からいつか見た症状、ダウン症の少年が前を横 切った。彼に世界はどう見えているのだろう。あの青空はあのように、この街路樹はこのように、見えるのであろうか。長女が幼稚園に通っていた頃、PTA でダウン症の子を持つ母親を知った。彼女の輝くその瞳に圧倒され、苦悩を乗りこえた者には、真の強さ優しさが宿るのだと思った。あれから20年。今横切 る少年を前に、脳裏に浮かんだこの疑問。車を止めたまま、彼の後姿を見送りつつ、考え続けた。そして、光が射した話を思い出した。ダウン症の子を持つ 親達の会では、私達は「神様に選ばれた親」なのだと、障害を持つ子供を育てられる能力を持つ親として、神様に選ばれたのだと、話し合われているという ことを。神の存在が無ければ、このような発想が生まれただろうか。障害児を抱えて強く優しく生きていけるだろうか。人のつくるモノが人生を成長させる のではなく、神を思う心の持ち方が人生を成長させるのだ。無意味な疑問に、恥ずかしさが込み上げていた。
僕は… 蝉に産まれなくて幸せ。立秋が近づくと、神奈備登山道に羽音が響く。梅の季には、鶯が啼き始め、桜が咲けば、熊蜂が舞い、テッペン カケタカと不如帰。負けじとコジュケイが、チョットコイと呼びつける。梅雨が去れば愈々蝉の合唱団登場である。今年の異変は、油蝉の静けさ。代わ ってカナカナ蜩の大発生。これにクマゼミが、シャンシャンシャンシャンシャンシャンシャーンと加担して、夏らしさが倍増。せっかち生まれの蝉は、 もう腹を見せて昇天している。彼女と仕事が済んでいればいいのだがと、ちょっと気になる。8月に入ると、登山道2800歩の間に、いくつも羽音が響く。 枯葉の上で、下草のベッドで、カサカサ、パタパタと鳴り続く。仕事の済んだ(そう思いたい)蝉達の、断末魔の羽音である。幼虫から羽化して、寿命 は1週間くらいだといわれる蝉。神の光を、浴びる喜びに浸る間も無く、パートナーを呼び続け、あっという間の生涯を閉じる。羽化の苦痛に、耐えられ るだろうか。断末魔の苦悶に、恥ずかしくない振る舞いが、出来るだろうか。僕は蝉に産まれなくて良かった。
幸福には3つあって、ひとつは自己満足の幸福。例えば趣味に没頭すること。他人から見ればちっとも幸福には見えないことも、本人には至福の
時なのである。ひとつは他人から見た幸福。有り余る財産・時間・名誉・地位等々を持つこと。但し、この場合も逆に、本人は決して幸福とは思って
いないこともある。ひとつは真の幸福である。ソクラテスのエロス賛歌の如く。
ペインのいうように「社会は我々の必要から生じ、政府は我々の悪徳から生じた」とすれば、悪徳は我々が政府に幸福を託すことが、その原因にな
るだろう。政治に託すことは、不幸を減らすことでなければならない。幸福を生むのではなく、不幸を減らすことこそが政治の使命だから。勿論それ
は、個人の不幸ではなく、あくまでも社会の不幸を減らすこと。社会生活の営みのうえに生まれた不幸を、減らすことである。
幸福は、営みになんら進歩や変化が無くとも、元々存在している。石器時代にも縄文や弥生時代にも、幸福はあった。冷暖房がきいていなくても、
ケーキや大福が無くても、ドレスが無くても幸福はあった。飛行機や電車・車等人がつくってきたありとあらゆる物が無くても、幸福はあった。夜空
に広がる満天の星、小鳥の囀り、魚の泳ぐ澄んだ小川や浜辺、お花畑に新緑の香り。
それ故に、進化する社会の営みの中に生まれた不幸を、規制し排除するのが政治家の仕事である。
解釈の仕方はいくつかあるだろう。一般的には、科学技術の進歩がそうだという人が多い。しかし、西郷のように「文明とは正義のひろく行な
われることであって、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」と言う人もいる。また、心とモノの対決・葛藤は文明に限らず存在している。
ところでソクラテスは、自分を裁く法廷で「金や評判・名誉のことばかりに汲々としていて恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂
を出来るだけ優れたものにすることには無関心で、心を向けようとしないのか」と訴えている。2500年以上も前からずっと続いている、人間の社会
上の欲望は、人に宿った魂の恋が、五感による美から、真の美(愛・善)へと少しも進歩していないことを証明しているのである。悲しいことだ。
プラトンは真の技術とは「出来るだけ快いことではなく、できるだけ善いことを志向していなければならない」と説いている。人の進歩は快を求め
てばかりで善を等閑にしてきた。モノつくりも快なるモノばかりをつくり、善なるモノをつくろうとしなかった。快なるモノはゴミを産んだ。もし善
なるモノなら、ゴミにはならなかったはずだ。何故なら、善なるモノをつくろうとして、それがゴミになると予想されるなら、つくらないだろうから。
魂の恋の欲するままに、美と思わしきモノ(快なるモノ)ばかりをつくってきたがために、ゴミに地球は覆われた。真の美なるモノ(善なるモノ)
だけをつくってきたなら、ゴミは見ることなどできなかったはずだ。
「テーリーガーター」で告白したイシダーシー尼の過去の七生。意味するところは3つあるように思われる。@悟りを開き明知を得ると前世が
わかる(悟ったかどうかは前世が見えたときにわかる)A悟れなければ一切皆苦のこの世に、また生まれてこなければならない(不滅とは生まれない
ことをいうのだろうか?)B自己とは肉体のことではない(生まれ変わる以上肉体は借りモノということになる)
ならば自分とはいったい何か。生まれ変わる魂のことだろうか。どうもそうとは考えられない。何故なら魂は恋をし、この世の美に心をときめかせ
るから。しかし、私達は恋のままに結婚したりはしない。未来を経験と智慧と先輩の教えによって判断し、パートナーを選択する。この判断こそが
自己なのではないだろうか。つまり学習によって、後天的に身につけたことが自己なのである。それではそれはいったいなにか。
仏陀(「サンユッタ・ニカーヤ」)によれば、身体で為し言葉や心で為すところのものが自身のものであり、これがあの世につき従っていく。また
あの世でのよりどころとなると。それ故に、来世の為にこの世で功徳(善い行い)を積まなければならないと。
私達は死ねば全ては消滅・霧散すると思っている。しかしそれは、借り物の肉体とその肉体に宿り、恋する魂だけ。この世で身につけた自分自身は、
あの世までついてくるのである。もう目には見えないし、忘れてしまった過去・死前の肉体での行為、話した言葉、心で思ったこと。100年に満た
ないが溢れんばかりの人生の行為が、決して消えることなくついてくる。
2500年前、洋の東西で賢人が誕生した。プラトンと仏陀。二人の思想で全く違った解釈が「怒り」。怒りを必要としたプラトンは「国家」や 「法律」で社会の在り方を考察し苦闘した。仏陀にとって怒りは、無用のもの解脱を妨げるものでしかない。悟りの境地を目指しニルヴァーナに自 己を置く為には、静かに瞑想を楽しむためには、怒りは抑えなければならない感情の第一位だと言ってもいい。一方、人間社会の正義に心を砕いた プラトンには、不正に対して怒りの感情を無くすことは出来ない。年端も行かない子供を誘拐し殺傷するなどという行為に、怒りなくしては正義が 成り立たない。社会の不正を糾し、直そうとする根本には、不正に対する怒りが必要なのである。この世を治めるもの(政治家)には、怒りが必要 だということであり、己を治めるもの(真人)には、怒りは邪魔なのである。
三十年も経てば、知った街がはじめての街に変化する。街は、人がつくった世界。太り痩せ、禿げ上がり白髪に、目尻に皺が言葉に疎遠が、 スーラの点描のように人に打ち込まれる。いつか見た夢は30年後の世界。しかしもっと何かが違う。開東閣に集う同窓は何を求めて来たのか。 焼き鳥伊勢や・ハンバーグバンビ・雀荘武蔵野、聞いては思い出し懐かしんでも、やはり違う。在り来りだがそれぞれの人生を歩んだせいだ。毎 日顔を見ては、はしゃいだ共通が浮かんでも、最早鼓動は静寂として、頭は明日を窺っていた。そう言えば夢の中でも、必ずもう一人の自分が、 鳥瞰図の如く覚めて観ている。夢は未来の年老いた自分の眼なのだ。
神奈備に登拝するとき、まず荒魂を祀る狭井神社に向かい2礼し、拍手を2回打つ。丸木橋を渡って2度目の2礼2拍手を、中津磐座で3度目 の2礼2拍手を、頂上の高宮神社で4回目の2礼2拍手を打つ。さらに奥津磐座で5回目の2礼2拍手を打つ。しかし未だに透き通るようないい音 が鳴った試しがない。3千年前、ホメロスの語ったトロイヤ戦争では、オリンポスの神々への祈りが叶えられると右手に鳥が飛ぶ。鳥が神霊の役割 を果たして、神と人の仲立ちをしている。日本の神官も同じで、神と人の間にあって人の願いを神に伝える。この時、柏手の役割は、神の目覚めを 誘い、ただいまから祈願します、の合図となるのであるが、情け無いことに願いが叶えられたかどうかは、騒がしい現在の人間にはわからないので ある。
ゴッホのお友達。タヒチを住処とし、雑踏から離れて楽園を描き続けた。奇人天才ゴッホとは何が似ているのか。はっきりと画布に塗りこ められた強靭な意思と意志。ゴッホはタッチでゴーギャンは色音で。ゴッホは筆で、ゴーギャンはまるで鏝で漆喰を壁に塗るように。色彩の鮮や かさこそ彼らの命。わずか3枚の傑作に心を奪われてしまった。中之島・国立国際美術館
何故、過去において圧倒的に多かったのか。儒教における家父長制度をあげる人たちが多い。思想によって縛られていたということか。
もっと大きな要因としては、土地。「まず喰う事、道徳はその次」とブレヒトが言うとおり、生きるための糧を求めることが人生の第一。その食
の安定確保が、米つくりをはじめとする農業を誕生させた。農業には土地が要る。土地は、開墾しなければ農作物は作れないし、持ち歩くことな
ど出来ない。また、手入れを怠れば、今日の休耕田のように荒れ果てていく。一人で生きていく人生は、其処には無い。共同生活を、無言の信頼
の上に営める家族。この代々の繋がりこそが、土とともに生きる生活の、安定を保障していた。ただ、生活の安定と引換に移動の自由を失ったけ
れど。自給自足の時代の結婚とは、2人のゼロからの出発ではなかった。出来上がった絆の家族に、他人が一人加わることなのである。この他人
はいずれ覇権を握るのだが…。兎に角、結婚は家とするものだったのだ。花嫁も花婿も結婚式当日まで、相手の顔を知らなかった、などというの
は普通のことだった?!このような時代には、恋愛という言葉は、なかったに等しい。例え、男女が出逢いめぐりあい、恋に落ちても、結婚まで
至るのは皆無に等しい。今日この不等号が等号に近づいているのは、食べるための土地からの、解放の賜物なのである。
ところで、愛は神・恋は魂・結婚は自分。こう思うのは私だけだろうか。私達は、何故恋をし、恋をした心臓がドキドキするのかを、誰も説明
できない。本能や遺伝という言葉では、十分納得できない。本能なら、異性をタイプで選択するだろうか。遺伝子がタイプを選択するのなら、最
初のタイプはどうして決められたのか。なによりも何故、恋は心臓をドキドキさせるのだろう。
それは、神の愛に包まれたこの世界で、一人一人の心臓に宿った魂が、恋をしているからなのではないだろうか。母体内での、心臓の鼓動の、最
初の一拍は、魂が宿った証拠であり、命の誕生の継続のために、魂は私達に恋をさせているのではないか。理由は、魂にとってこの世は、多くの
宗教者が言うように、修行の場であるからだろうか。しかし、私達は、魂の恋のままに、結婚は出来ない。何故なら魂は、生涯に何度も恋をする
から。結婚が済んだ後だって…。また、子育てなくしての結婚はない。結婚とはまさに、子育てのことなのである。子育てのパートナーを選択す
る、これが結婚にとって最大のポイント。それ故、私にとってこの不等号は、当然なのである。思想や制度や食べるために生まれた、不等号でも、
勿論ないのだ。そして恋は、魂が去るまでつづく。
京の都に鰻料理有り。
吃驚は、うスープ。
鰻のスープだ。
焼き鰻のぶつ切りが骨を見事に抜いて入っている。
が、この鰻に驚くわけじゃない。
スープの美味!
さっぱりとして濃厚。
熱々カップルにさらに火がつく味?!
もう最高。
「松乃鰻寮」という。
オープン間もないL金澤氏経営の戒重SSで、上質の燃料を満タンに、一路「尖石縄文考古館」へ。ここは八ヶ岳山麓、諏訪湖の上流に位置している。
無論目的は土偶“縄文のヴィーナス”。日本最古(約5000年前)の国宝である。片道350kmも中央自動車道を長野県に入れば、赤松が左右に林立し、食い
しん坊にはもう、松茸の匂いが浮かぶ。数ある重文土偶のなか、彼女こそは、心象・形・色とも、突出して美であるが故に国宝となった。ロダンや光雲も
形無しだ。ミロのヴィーナスもサモトラケのニケも及ばない。僅か27cm・2kgの体躯に表現された美は、一目見た瞬間、触れたい衝動に耐える苦痛を全身
に走らせた。
この妊婦と思しきヴィーナスを見つめているうちに、ふと「自分が多感な思春期にあの世に旅立っていたら、この世に生まれた意味はどう
変化していただろうか…」と。暫くして、我が子がこの世に生を享けていないということに行きあたった。そして震えが襲ってきた。恐る恐る顔を上げ、
もう大人になった3人を見つけたとき、熱いものが体中に充満した。