の言いたい放題 2003 桧原神社で初詣。奥の不動寺を経てダンノダイラの磐座から巻向山頂近くの共同アンテナに至る。大和盆地の一角を望み天壇のある尾根を通って三輪山頂
から帰宅した。約3時間のウォーキング初詣になった。克弥とふたりで。御神体で味わうカタルシスは何とも言えない清々しさがある。厭きないという言葉が一番
相応しい。生命の息吹を感じとることができる。生きている実感がある。山頂で出会った小学校の同級生浦出君の兄さんに聞いたのだが、正月三が日は登拝禁止に
なっているらしい。これは知らなかった。4月9日高宮神社祭日の登拝禁止は知っていたのだが。多分人出が多過ぎて禁止にしているのだろう。それにしても山頂
から見る大和は美しい。どんなに霞んでいても晴天でも美しい。青垣の山々は演出効果たっぷりに鎮座している。今年も。否、ずっとだ。国譲りの神々が棲んでい
た日本で一番やさしい国だ。どこにも負けないやさしい国だ。そこに今、住んでいる。
翌日、大神神社に初詣。7時を少しすぎていたか。それでも毎月1日の月次祭くらいの人出があった。古い神札を持って行った。多神教がぴったりの我が家に
相応しくお守りや神札が一年で随分溜まっている。朝の神社は神々しい。人の話し声まで神々しい。誕生という意味がここにもある。新しい一日が生まれる朝とは
神々しいのだ。一日が終わる夕方も然りだ。生命の誕生を一日の長さで計るならこういうことになる。初詣でおみくじを引かなかったのも初めてだ。自分の心の変
化に気づいている。五十という年齢に、考えている。
明治5年 学制発布に端を発し、第二次大戦敗戦後の復興・民主化の加速によって、義務教育は、子供に大人になることを遅らせた。戦後の知育偏重教育
は、子供を子供としてしか見ない社会風土をつくりあげた。たかだか50年のあゆみがもたらした、この子供を子供としてしか扱わない教育は、ようやく今日になって
その歪を眼前に露呈しはじめた。昨今の少年の、非行と呼ぶことも出来ない殺人行為は、その証明である。
少なくとも戦前までは、子供は大人の用事にまにあう子供であって、用事に間に合う限りにおいては、大人と同等に扱われていた。子守り、家事手伝いはもとよ
り、大人の本業としての農業、漁業、魚屋、八百屋等と呼ばれる仕事の所謂丁稚的な役割は、十分こなしてきた。その意味では、子供は大人であったのである。
確かに産業構造の変化、単純にいえば手仕事から機械仕事への変化によって、子供の出番が減ったことも事実である。しかし、その結果として子供が大人である
機会を失っていった、という社会構造まで進化したことに、問題があるのである。この社会構造への進化に拍車をかけたのが、義務教育からはじまる知育偏重教育
である。教育の中身が教室という空間の中に限られた為、一層子供が社会から隔絶させられたのである。机上の教育だけが教育であるかのような印象を皆に与えた
のだ。親が子供に勉強をいうとき、まさに机の前の子供だけがそれであるように。
現実社会との関わりから完全に子供を切り離すような教育のあり方を変えない限り、子供は永久に私達に彼等自身の歪を提示し続けるであろう。同じ空間同じ時
間を大人も子供も共有して生きていることを、私達大人は忘れている。共有して生きているということの意味を、十分わかっていない。
子供の権利とは、大人になろうとする権利のことで、大人はその道を開いてやる義務がある。しかるに、今日の教育は机上の勉強に終始することを子供に強要し、
子供が大人になることをワザト遅らせている。論外と言わなければならない。大人として恥ずべき行為であることに気づくべきだ。今から百数十年前には、10歳に満
たない少年でさえ武士であるが故に切腹を余儀なくされた(新渡戸稲造 「武士道」)時代があった。これもまた哀しむべき行為ではあるが、現代もまた対比して情
けない時代である。
知的欲求を満たすことだけが「正」であるかのような社会が、続いている。IT革命を叫ばれる現代においても、まさに情報とは知の裏付けを必要とした社会のこと
である。
人類の誕生以来、人の子育ての目的は、日々の生活に役立つ人間に育てることだった。早く大人に一人前に育てることが重要なことだったのである。その為、姉や
は15で嫁に行き、武士は10代で皆元服し大人の仲間入りをした。人は10代で十分大人になれるのである。現代は、これを無視し、子供自身が大人になろうとしている
のをさえ、押し留めている。もっと大人扱いすべきなのでは、ないだろうか。
子供は大人になろうとする。大人は子供を子供のままに育てようとする。そのハザマに、その手段媒介に、知育偏重教育が存在している。自立しようとする子供を
押し留める第一は、塾からの帰宅の遅さ、TVやTVゲームへの没頭等による睡眠不足、夜更かしにある。現在、自分で朝起きることが出来る子供が、何人いるだろ
うか。朝自分で起きられないで、自立できるだろうか。自立とは一人で生きてゆけることを意味する。子供を朝起す行為が、子供の自立にとってどれだけ大きな障害
になっているかを、理解している親がどれだけいるだろう。理解していないからこそ、ほとんどの親は朝起すことを仕事にしている。親に子供を任せている限りは、
子供は自立出来ないとさえ言わざるを得ない生活環境になっている。
偏重教育の意味を考えるなら、それは学問と教育の境が不明瞭だということに尽きるのではないだろうか。一言で言えば、教育とは大人をつくること。学問とは自
己の欲を学ぶこと。(未完)
人は畦道の雑草と同じです。いつ生まれいつ消えるか自分ではわかりません。どこで生まれどんな死に方をするかわかりません。しかし、その死は新しい命の糧にな
ります。自分の死が次に生かされなければ、生まれてきた甲斐がないのです。また生まれた者は生まれて来られなかった者の為に、成長した者は成長できずに途中で
黄泉の国に行った者の為にも、その生を繋いでいかなければなりません。ただしかし、人間には自己浄化が必要です。人間以外の生命がその数を減らし続けているの
とは対照的に、人は増え続けてきましたから。人間にとっては自己浄化だけが、この一方的増加を、減り続ける他の生命に許してもらえる方法なのです。自己浄化を
如何に身につけるか、どう教育するか、これが義務教育の課題だと思います。明治以降、義務教育の目指したものが、今、通用しないのは、人だけが増え続けたから
です。単に、人が増えつづける為の教育をしてきたからです。
自分を見失わずに生きていくことであり、自立した人間のことを大人という。遠い過去から人は我が子に対して早く大きくなれと願ってきた。無論、全ての
動物はそう思って子育てをしているに違いない。我が子が大人になることが親の最大の願望だった。現代社会の不思議さは、我が子を早く大人にしようとしない親の
多さにある。子供の自立を促がさない姿勢にある。その証明は、朝、子供を起こす親の多さを見ればわかる。朝自分で起きることが自立の第一歩であることは自明の
理なのに。
自我に目覚めると世の中が下らなく見えてくる。欺瞞だらけの社会に思えてしまう。事実、一方では正しい。また、この世の汚れが目につくだけでなく自分の身
にしみ込んで来るのがわかってくる。だから、長生きすればするほど醜さを全身に纏うことになるかもしれない。悟りを目指すのは、自己の汚れ、醜さの解放への
願いでもある。しかしまた、長生きするほどに人生に対して達観できるようにもなる。純真無垢の三つ子の世界と長寿の達観の世界、さらに修行による悟りの世界
にある者は次の世にも高いレベルの位置にいられるように思う。五感を愛する我が凡人はあの世では低いレベルからの出発を強いられるだろう。だが、100m競争や
マラソンにゴールがあるように、遅々とした走りしか出来ない我が身も、いずれその次の世にいけると思いたい。時間がかかるだけだと。一旦生を受けた命は、や
はり神に辿り着くまでその使命を全うせざるを得ないのだ。そんな確信が我が心に芽生えている。死もまた生と同じ価値を持つ所以である。
「あの風のように、やわらかく生きる君の為に、僕は強くなるより優しくなりたい。」―小田和正―
人生の過程で幾度となく出会う悲痛は、何を僕に語っているのだろう。友の死、家族の死。人は悲しみの数だけ優しくなれるという。確かに人生の折り返し点を
過ぎた心は、10代の青春には思いもよらない柔らかさを身につけた。思うように動かない体は、人を思いやる事を覚えた。
長く生きたことが、優しくさせるのだろう。優しくなる為には長く生きるしかないのだ。長生きして否応の無い悲痛を多く味わえば優しくなるのだ。神様が「お
前はもっと優しくならなければならない」そう言って、悲しみを僕の前に示されているのかもしれない。もっと、もっと、優しくならなければ、人として生まれてき
た甲斐が無いのだ。
人は生まれる時自己の意志では生まれないのに、何故自分の意志で死ねるのだろう。意識している自己だけが何故死を選べるのか。前の世で生まれようとし た意志が存在したのだろうか。この世の輪廻だけに限るなら、人に苛め殺された生き物が次は人に生まれたいと思って人に生まれるからだろうか。もしそうなら、人 の数は少なすぎる。もっと増えていなければならない。それにしても自分の生まれた理由を見つけられないでは、哲学したことにはならない。そうかとんでもない勘 違いをしていた。人は遠い遠い昔、長い人類史の中で死を体得したのだ。余りにも強い悲痛にであって自らによる死を手に入れたのだ。本来自らの意志で生まれず自 らの意志で死ねないはずの人間が強烈な悲痛を浴びて死を手に入れたのだ。死を手に入れたときから、人の意識する思考、心が誕生した。肉体と精神の合体した人間 の誕生である。 人は自分の意志で死ぬことができる。しかし自分の意志で生まれたと言えるものはいない。何故自分が人間に生まれたかを言える者も極少ない。人神(キリスト等) と呼べる者達だけだ。だが、人に生まれた理由を発見できなくて人として生まれた甲斐があるだろうか。理由もなく人に生まれるはずはない。ひょっとしたらプラト ンの饗宴にあるように、男女が合体した男女(おとこおんな)の世がこの世の前にあったのかもしれない。もっと前の世にはさらに合体した世があったかもしれない。 世が次から次へと進む度に分裂してきたのかもしれない。だからこの世の次の世、あの世では心と体が分離するのだろうか。
自分の命を自分だけのものと思う人は、些細な困難にも逡巡する。かけがえの無いこの僕の人生であっても、この命は与えられた命である。誕生そのものが与 えられたことであるならば、この自分の命は自分だけの命とは考えてはいけない。この命を与えてくれた両親の命でもあり、この命を繋げた我が子の命でもある。視 野を広げ歴史を遡れば、この同時代を生きる者達の為の命にもなる。何故ならこの今の自分の命は、現在・過去の多くの人の命によって守られ支えられ今日に至って いることに、疑問の余地が無いからだ。厳しく言えば、生きる命の為に自らの命を犠牲にしてくれた人のための命でもある。人が人のために生きるのは、この理由に よる。今日健康診断によって早期ガンの発見が著しく進歩した。しかし、男女のシンボルや顔にできた癌に手術を躊躇う人のなんと多いことか。自分の命を自分だけ のものと思っている証である。
昨年秋(2002.10.13)講も酣、池田利一氏「2時からの宴会は昼飯の後でしんどいでんなあ、昼に出来まへんのかいな」。一同「そらええわ、そうしょう」。 あっという間の決断・決定であった。というわけで、本年は11:30池田龍三氏宅に集合。当屋嶋岡一郎氏宅で催された。14:00正座増田正氏「そろそろ、神社にお参 りしましょか」。満開の桜が三輪山にぽつぽつと新緑の新芽に映えている。家並みの向こう、丘には桃の花盛り。春真っ盛りの古里を満喫しながら酔いどれ達の神社 までの散歩となった。「田舎はなあ、都会で疲れた者の心を癒すとこや、都会は稼ぐところ、都会の者は田舎に来て稼ぎの疲れを癒して帰る。せやから、田舎にお金 を置いてかえらにゃならん。そのかわり田舎の者はそのお金で心を癒せる自然をまもらにゃならん。」そういうことかな。さて日曜日の日中ともなると神社も人が多 い、祈祷も順番待ちが並んでいる。それでも茅原正言講12名は割り込みのトップで祈祷殿に呼び出しだ。長くお待ちの皆さんには申し訳なく心苦しい限りだが、何百 年の伝統には誰も逆らえない。築後まだ何年も経っていない祈祷殿は清々しい。新しい発見が、否、試みが二つあった。一つはBGMが流れていたこと。一つは修復 なった拝殿でも玉串奉奠ができたこと。後日このことを越権宮司に尋ねたところ拝殿もしっかり使わないともったいないとのことであった。大神神社の象徴三つ鳥居 はこの拝殿にあるのだから。ゆっくりとした春の日が過ぎていくのがわかる良き一日であった。正言講は永久に不滅です。で、あるかな。
毎朝4時起きの僕にとって朝食抜きは辛い。前夜9時以降は一切の飲食禁止である。早起き仕事を片付けて飲む、一杯のエスプレッソが楽しみなのに。8時半受
付。場所は奈良県健康づくりセンター。
二日前の人間ドッグ、バリウムの罠に嵌まったのだ。この日最後の内科健診、フイルムを指差し、30代の女医曰く「胃潰瘍の疑いありです」。弱い。女に弱いわけ
じゃない。それは女房で卒業したつもりのつもりだ。検査に弱い。だいいちドッグ2日前から禁酒した心掛けが弱い。「カメラ飲んでください。もし潰瘍なら早く処置
したほうが良いでしょう」。黙り込んだ僕に「何処で検査されますか。このセンター以外の病院なら写真送っておきますよ」。有無を言わせない。「お手数掛けるの
悪いですからまたここに来ます」。これが精一杯。病人として検査に来たわけでもないのに、病人に囲まれているわけでもないのに、何故か医者と看護婦がいると自
分が患者に思えてくる。弱い。10年前に来たときは全てクリア。紛れもないぴかぴかの内臓だった。5年前には慢性胃炎の診断が下った。高コレステロール血症・腎
結石4mm・疑胸膜炎・慢性胃炎、そして胃潰瘍の疑いあり、が今回である。五十路。そういうことか。
パンツ一枚に検査用のパジャマを着て待つこと30分。血圧を測り、大匙一杯の液状飲み薬、10分間口に含んだままのゼリー状薬を吐き出せば、肩に筋肉注射。こ
の時はわからなかったが、40代の看護婦の目が潤んでいた。俺に気があるんじゃないかと思っていた。甘い。
胃カメラ室に通され膝を曲げてベッドに横向けに寝る。心はもう完全に医者のペット状態だ。何を言われてもただ頷いている。咽喉の粉末麻酔薬を飲み、穴の開
いたプラスチックマウスピースを咬めば「唾を飲む真似をしている間にカメラを通しますから」と、先端にレンズの光る黒いへびを見せられた。太さはちょうど大人
の小指くらいか。どうしようもない何度もの嘔吐感に襲われ、涙が滲み出た。「上手に呑んでますよ。いい調子です」。看護婦が背中をさすってくれる。目を瞑って
堪えるうちにへびは胃に辿り着いたらしい。空気が注入されて今度はゲップが出る。「余裕があれば頭上のモニターTV見てもらって良いですよ」。聞こえない振りを
した。幅1mm位のワイヤーがへびの中に通され、ピロリ菌検査の検体がとられた。こうして10分に満たないこの時間は、齡50に竹の節のように刻まれた。
看護婦の潤んだ目は、僕に嘔吐の涙を示唆していたのだ。2003.4.24
日常、零の持つ意味には、何も無い零とご破算の零がある。目に見えない神の光によって万物が生じた時、何も無い零は無くなった。零は無限大になった。
無限大になった零にとって転生は当たり前のことになる。我々が思う無である死も零にはならない。何かに変化して生まれ変わるだけ。何も無い零は、天地創造以前
の神の記憶として、人間の観念の中に生き続けているにすぎない。ここに唯一、神と人間の接点があるように思われる。しかし残念ながら何一つこのことを証明する
要素を持ち得ない。神のみぞ知る、である。兎に角、何も無い零は無い。
ご破算の零は、人生の営みの中にある。何度失恋しても恋をする。資格試験に何回も挑戦する。負けても負けても馬券を買うなどがそれだ。懲りない人達、これら
の人達は零の思想を理解していると考えられる。ところで、ご破算の零にとっては、死も終わりではなく始まりになる。これは、死は再生するという無限大の零の観
点から生まれた。このご破算の思想が人生の生の中に取り入れられて、一からの出直しが可能になったのである。さーて、万馬券とるぞ!
そう言えば17年前に泥棒が入ったとき、指紋を取られたけど、今、その機器も進歩している。両手10本の指は勿論、掌まで指紋を取られた。手には一点の色も
つかない。肩・手を楽にしていれば、係官が全部やってくれる。便利になったとはいえ、気分は前のときと変わりはしない。またこれから、このことを忘れるまで、
知らぬうちに人を疑っている自分に気づくのだ。情けない日々を味わうのが辛い。
日曜の朝も、いつもの4時過ぎに目覚め、パジャマ姿でボイラ室から事務所裏口に。見たことのあるバールが転がっていた。誰が持って来たのだろうと不審のまま
顔を上げれば、ガラス扉が錠の横で割られていた。真下には建築用のシノの付いたスパナとガラスの破片が散らばっている。入ったなと思った。現状を触ることなく
まず親を起こし、警察に連絡。15分もすれば二人の警官が駆けつけてくれた。鑑識が来るまで写真撮影と発見時の事情聴取。5分後にはパトカーでさらに応援の警官
が一人。さらにじっと外で待つこと10分、鑑定の係官2名が着いた。彼らの後に従ってようやく入室である。
17年前はプロの泥棒といってよかった。入った痕跡を見つけるのに時間がかかったからだ。今回のようにガラスが割られることもなかった。机の引き出しも閉まって
いた。金庫の扉も同じ。そう、前回は金庫の中の手提げ金庫が無いことに気づくまで、わからなかったのだ。この時の被害は甚大であった。
鑑定係官が来るまでの事情聴取で「以前にもこんなことあったのですか」と聞かれた。多分、触ることなく一歩も入室することなく待っていたからだろう。経験者
扱いされたわけだ。普通なら吃驚して何が盗られたのかをすぐ確認するだろうに。入室しなかったのは、この理由だけじゃない。前回に懲りて、金品はできるだけ置
かないようにしていたのだ。もっとも、不景気で手持ちが無いことにもよるが。
6時30分鑑定終了。3流のこそ泥に振り回された早朝の2時間半。5名の優秀な警察官に心から感謝の意を表したい。
退職して何をしているの、と聞いたとき「蛙切り」と答える人は百姓をしているということだ。武士の時代に武士は人斬り、百姓は蛙切りと卑下していった名
残である。今朝、鍬で場内の草削りをしていた。何匹もの太ミミズを草と一緒に切っているときふと思った。神に願いは届かないと。唯一死ぬまでその願いを持った
とき、死後始めて届くと。それなら、生の願いは全て意味を持たない。何故なら願いが叶えられるのは死後だから。願うなら死後の願いを生きている間にしかも死ぬ
まで願い続ける必要がある。気変わりの多い人間の願いなどきいてはいられない。一時の願いなどきいていては、神とて、それこそからだが持たないというものだ。
だから、死後の願いを死ぬまで願い続ければきいてもらえるかもしれない。
天国と地獄の誕生はここに始まる。死後のことなどわかろうはずもない我が凡人に、死後の願いをわかりやすく説いているのだ。死後は天国に行きたいと死ぬま
で祈り願い続ければきっと行けると思う。
死を語るとき必ずといってよいほど宗教が顔を出す。葬式仏教の呼称を知る必要も無く、すべての宗教には弔いの儀式がある。何故。人は一度生を享ければ、
命ある間多くの死を目の当たりにしなければならない。小さいときに見た昆虫や小動物の死。その屍の姿。腐敗し異臭を放ち蛆が群がっている。私たちが弔っている
のは、本当に魂なのだろうか。私には肉体の屍のような気がするのだ。哀れな醜い屍を晒したくない見たくない信じたくない。そんな衝動が心底にあって弔っている
のではないか。
魂及びその鎮魂思想は人神と呼ばれる人達だけが体感でき、我々に宗教として伝教されてきたと思われる。彼等は肉体をこの世の魂の仮の宿と喝破した。そうす
ることによって、目の前の醜い屍から執着心を解き放った。しかし、我が愛すべき凡人は眼前に屍がある限り執着する。決してその場を離れられない。死体に抱きつ
きその死を罵倒するものさえいる。勿論、愛するが故に。惜別に耐えられないが故に。屍が消えてこそ初めて執着心が薄れていく。
屍を消す。土葬・火葬・水葬がすぐ浮かぶ。この時この肉体との決別に宗教が入り込んだ。どう決別するのか。故人の生前の栄誉を讃え、偲び、この世の未練を
解き放ち、あの世での安らかなる眠りを読経する。故人のこの世との決別をもって、残された者の故人への執着を解くのである。但しこれは魂に語りかけているのだ。
屍からの魂の解脱を助けているのだ。依然としてわが凡人の愛すべき骸はそこにある。魂の抜け殻となっても骸はある。観桜し新緑を嗅ぎ、大吟醸に咽喉を潤し野鳥
の囀りを聴き、恋人を抱きしめた躯はある。魂こそが最も愛した躯がある。魂でさえ未練を持つ躯が。
やはり、私には屍を弔っているとしか思えないのだ。
米作によって弥生時代が始まり、日本人がジプシーの縄文時代を捨てたとしたなら、それは女性の意思による。だから、オロチ達は女性を求めて里に下りて来
ざるを得なかった。子を産み育てる女性にとって漂浪の不安定な生活は、辛い。幼子に乳をやり、愚図りをあやし、遊びの相手をしつつ、山谷を越え獲物を求める旅
の、困難を極めたことは、容易に想像がつく。女性にとって定住の安定した生活は、現在の都会に集まる若い女性たちと同じように憧れであったに違いない。米作を
営みの中心としてきた天孫族を弥生人とするならば、彼等は縄文女性の心を掴んだはずだ。しかも彼等の頂点は女性の天照である。縄文女性は次々と弥生人と結婚し
ていった。取り残された縄文男性は女性を求めて里に下りてきたのである。しかし、中には里の生活に馴染めない、自然のままを愛する男達がいた。オロチと呼ばれ
た8人衆である。天照の弟素戔嗚に退治された彼等をはじめ、こうして多くの縄文時代人は弥生人に僻地へと押しやられていく。
さて、ヤマタに棲む縄文オロチ8人はこの日ばかりは目一杯着飾る。彼等にとって今日は里の娘を娶る結婚の儀式なのだから。獣の皮に赤い実を付け、実を絞って
色をつけ、身体全体をすっぽり包んで、土産を持って松明片手に意気揚々とやってきた。もともと彼等には小部族間で縄張りがある。彼等の縄張りに住み着いたこの
家族は当然彼等のしきたりに従わなければならない。オロチ達はそう思っていた。またこの家族もオロチに娘を嫁がせることによって、この地での安全と生活の安定
を保障されていた。ただ如何せん8人娘の最後の一人を失うわけにはいかなかった。放浪を愛し自然に生きるオロチ達に定住の婿養子など無理な相談だったのだ。た
またま通りがかった素戔嗚に相談。謀を持って彼等は葬られた。今までより格段に強い、旨い美酒に酔い潰されたのである。
四季を四季のように自然に包まれ育まれ、自然のままに生きようとした縄文時代人の宇宙との共生は、神に見放されたのか。オロチ達が葬られて以降、今日まで
人間は、弥生の営みを続けている。女性の意思のままに…。
人間の美徳のひとつに「後片付け」がある。この美徳は人生に必要だと思っている。確かに人の死 はいつやってくるかわからない。わからないからといってこの美徳を放置してしまうのは、人に生まれてきたものとして残念な気がする。人生のいつでも後片付けの ことを考えた行動が欲しいように思う。大きな話をすれば戦争である。後片付けのことを考えれば、到底このような行為はできない。殺人の後片付けなど出来はしな い。埋葬などと勘違いされては困る。戦争の死の後片付けとは蘇生のことだ。将棋の駒なら蘇生するが、人の命を奪った後の片付けなど決して出来はしないのだ。後 片付けの出来ない行為は、するべきではない。これを人生の基本にしたい。ゴミの問題然り。分別すればいいというものじゃない。出さないことが基本。出さないた めにはどうするかを考え行動するのが美徳だ。モノつくりのすべてもそうだ。つくられたものは、最後は全てゴミになる。この末路のゴミの始末を考えてモノつくり をしなければならない。つくったモノの後始末を人に委ねるのは、無責任極まりない行為だと思う。つくりっぱなしの思想がゴミの山を築いたのだから。
何年前だったか吉野山「八十吉」店主村田さんの招待でGLAの高橋佳子氏の講演を聞きに行った。10.000人近く入ったドーム「ワールド記念ホール」の最後部 上段席だったが、今でも鮮明に覚えていることが一つだけある。高橋氏による混沌の説明である。「今から混沌をお見せしましょう」と言われ、闇と光が混ざった 状態、それを黄色と黒の絵の具をぐるぐるとかき混ぜて示された。普通の絵の具なら混じってしまって黒っぽい変な色になるはずだが、確かに混ざってはいるがそれ ぞれの色をして黒のあちこちに黄色は存在していた。黒は暗黒であり黄色は光である。混沌は暗黒に光が飲み込まれたように見えるが、実は光ははっきりと点在して いるのだ。光は決して消えはしない。この光を大きく強くすることが混沌からの脱出になる。そういうことだったように思う。私たちがどんなに絶望感を抱いても完 全な闇にはならない。微かでもダイヤの煌きの如く希望の光は存在し続けるのである。
男にはあまり縁の無い感覚だが、女性はこの意識が高いらしい。ということは、男は観ている側なのだろうか。否、観られ意識の高い女性こそより強く観てい
る側でもあるのかもしれない。只、男と女、観るところが違う。焦点が違うというべきか。簡単に言えば、男は裸の女性を観ているが女は美しく見える自分を見てい
る、ということか。女性がどんなに装飾し、着飾っても、男には服や装飾品はさして興味は無い。生身の女性そのものに興味があるだけである。一方、美しく見える
自分を意識する女性にとっては、化粧にかかわる全てのことに興味は尽きない。
私はよく三輪山の裾にある田畑の草刈に一人で行く。4段半をトラクターと草刈り機で刈る。誰もいない静かな山裾で一人喧しく音をたてている。ふと視線を感じ
るときがある。人のではなく、山のというほうが正しい、視線である。水族館や動物園でいろんな動物を見ているとき、逆に動物に見られていると気づいたときの
感覚に似ている。この視線を一言で言えば神の眼なのであるが、神の眼を一言することは難しい。刈られる草や萎れた草、蜻蛉や虻や飛蝗にも、松や桧や山躑躅、掘
り起こされた土にさえ観られていると感じるのである。
なぜクリムトにとって美が、女性のセックス時のエクスタシーの顔なのか、クリムトのみぞ知るである。肖像画家といってもいいだろう彼が、顔にこだわった ことは簡単に理解できる。美と恋の女神ヴィーナスでも聖母マリアでもなく、モナ・リザに見る魅惑の微笑でもない。神聖なるルオーや闇に光を凝視するレンブラン トの自画像でもない。生涯未婚で通した彼にとって、もっとも魅力を感じる女性の恍惚の顔に決めたのだろうけれど。私には彼の最高傑作に思える未完の「アダムと イヴ」においては、アダムこそエクスタシーに達した好い顔をしているのである。
私は未熟児である。否、未熟児として生まれた未熟者であるが正しいか。昭和28年6月のある日、母は田植えをしていて冷えたらしい。冷夏の雨の多い梅雨だ ったそうだ。予定日の9月初めが6月22日になった。2ヶ月以上も早く出てきてしまった。産婆さんによる自宅出産である。いつだったか戸籍謄本を市役所に取りに行 ったとき、母の入籍が私の誕生日より後になっていたのを発見した。戦後の昭和20年代では、まだ、嫁は子供を生まない限り入籍されなかったらしい。古い因習に其 の時震えたのを覚えている。現代のできちゃった結婚と戸籍上の見た目の不自然さは、そんなに変わりはしない。しかし、できるまで入れないのとできたから入れる のでは、全く正反対と言ってもいい。入れたくても入れられないのと仕方無しに入れるのとみたいな、ぎこちない感じがある。話がわき道にそれたようだ。兎に角、 私は夏至の日に未熟児として生まれ、綿の詰まったドテラに包まれて暑い夏を越したらしい。50を超した今になって、耄碌した頭やみすぼらしい容貌や皮膚の弱さ内 臓の虚弱をこの未熟児のせいにし始めた。思いもしなかった想念がでてきたものだ。若い頃は頭の悪さも不細工な容姿も皮膚の弱さも、未熟児とは何の関係もなかっ たのに。年を取っても未熟者の証である。
三岸節子の自画像 女子美を首席で卒業した節子は19歳で身籠っていた。勿論、好太郎の子である。愛知県の大地主の家に生まれて家を捨て上京。絵 に納得を見つけようとしたらしい。そして社会との格闘が始まる。絵で生きるのは今より大変な時代であったろうに。だから心に鬼を飼っていた。心の鬼と戦ってい た。この自画像にはそれが見えると。そうかもしれない。でなければ、この自画像の少女が今まで生き続けて、僕らの眼に触れることなど考えられない。何故なら、 節子自身がこの絵を破棄したに違いないからだ。破棄しなかったわけがあったのだ。
マリー・ローランサンの自画像 詩人アポリネールとの出会い後の25歳(1908年)の自画像は1905年の自画像とは一変する。5年後には破局を迎えるのだ が。自信喪失の暗い陰鬱な自画像しか描けなかった彼女が、アポリネールから毎日捧げられる愛の詩によって、この一枚の自画像から大変身する。青春のわが顔との 葛藤は彼女にとって醜さとの格闘であった。自分の顔は醜いとそう決め込んでいた青春の狭隘な心を開くことが出来ないでいた。アポリネールによって開かれた心は、 恋心の開花を生み、その後の絵の方向を決定付けたのである。
ケーテ・コルヴィッツの自画像 第一次大戦で息子を失い第二次大戦で孫を失った。鏡に映った顔を描きながら自分と対話している。正面を向いて毅然 としているが虚ろだ。遠くの自分を自分の心を探っている。けっして、自分の顔を見てはいない。ヒトラー政権に楯突いて迫害を受けつつ制作し続けた。制作には母 性が彼女を突き動かしたといえる。子を産み育てる母性と国民に死を迫るファシズムとの闘争が自画像にも反映されている。この自画像に愛は一切関係無い。死と向 き合った、否、死と向き合わされた母性が悟りの境地に入ってしまったかのように強く静かに端然としている。
小倉遊亀の自画像 茶目っ気な眼をした67歳の自画像である。105歳を全うした人生の軌跡がもう滲んで見える。がっちりと骨太な顔と体躯に、斜めな 部屋がよく似合っている。丈夫な美とでもいうべきだろうか。多分本人もお気に入りの自画像に違いない。多くの自画像を見るが、画家自身がお気に入りのように見 えるのは、この絵が初めてだ。人生は、こうあって欲しい、こうあるべきだ、そう自然に納得させられる絵だ。たおやかで頑丈、新鮮とウイットを忘れない生き方を、 その笑みの中に包含している。たった一枚の自画像に人の生き方が画いてある。滋賀県立近代美術館。