痛みを感じる感覚のことだ。心や頭ではなく勿論体表感覚のことである。魚には痛点が無いといわれている。何故なら針のついた餌を口にくわえて逃げる からだ。もし痛かったら逃げたりはしない。人は耳を引っ張られたらその方向についていく。痛いから。つまり痛点が有れば反対方向には逃げないものなのであ る。ところで、末期癌の治療方法の一つに痛みをとるということが考えられている。死が眼前に迫った患者から、せめて痛みだけでも取ってやろうという考えで ある。現在の医学ではこれも良い考えだろう。しかし、もしこの方法の行き着く先が痛点の完全除去になったとしたらどうなるか。痛みを感じない人間の誕生が 可能になったら。殴られても、叩かれても、切られても、撃たれても、刺されても、痛くない戦士がいたら。ますます戦争が増えるだろう。否、そんなことでは すまないはずだ。自分が病気で腐っていても平気でいられる。腐っている自分を見つめながら生きている。たとえ後少しの寿命だとしても、こんな自分を想像し ただけで身震いがとまらない。そんな未来がすぐそこまで来ている。人はまた、こうして苦悩を増加させる。
この世に無なんてことがあるだろうか。例えば水。固体、液体、気体と変化して無になることはない。人間も同じ。人間でなくなるだけで無にはならない。 同じモノでないということを無というなら無は存在する(変な言い方だが)。しかし、変化しただけで無にはならないというほうが正しい。人は眼に見えないとき、 それだけで無と考える。真の無は実は観念の中にしか存在しないのだ。無我の境地といった観念がそれだ。禅の心もそうだろう。座禅。悟った高僧はこの座禅で無 の境地に到るといわれる。呼吸も心拍数もこの境地に到るとうんと減るらしい。凡人のままを愛する我が身には到底無理だが。ただ、凡人にも言い分がある。総合 的人間の視野に嵌めれば、座禅を組んだ時だけ悟れるというのは、たいしたことが無いのではないか。何故なら、座禅を止めれば我々と変わらない日常であろうし、 日常生活によって煩悩の塊と化すだろうことは想像に難くないからだ。無の境地とはまさに没頭のことではないか。一つことに集中した時の人の状態をいうのでは ないか。極限まで腹が減って飯を貪り食う状態も無の境地なのではないか。咽喉がからからに渇いて水を飲む一瞬の行為も無の境地なのではないか。悟った高僧の 一時の座禅と我々の日常のこうした行為も変わりはしないのではないか。ただ違うとするなら、高僧は座禅さえ組めばいつでも無の境地になれるということだ。残 念ながら凡人は、そういうわけにはいかない。
京都五山をはじめ禅寺の多い京都。禅寺に必ずある枯山水。石と僅かな木々で造られた石庭のことだ。禅と石庭との関係は何か。簡単にいえば、石は途方も
無い過去に生まれ今まだ有り遠い未来にも存在し続ける。自分はどうだ。比して人間は儚い。悠久の石と明日とも知れぬ自分を対峙して人生を考える為に、悟りを
旨とする禅寺に枯山水は必要なのである。法堂の天井に画かれた龍。水神としての火災除けの為だけでなく、修行の場であることを考えれば見る者の心は自然と透
明にならざるを得ない。
(神と愛は人間としてこの世で生きている限り合致しない。愛を求めれば神は去り、神を求めれば愛は遠ざかる。そんな気がする。
だから男が悟ろうとすると女が邪魔をする。女性は悟ろうとはしないのか。女性の座禅なんて聞いたこと無い。もっとも、座禅だけが悟りの方法じゃないだろうけ
ど。女性の誰かがいつか座禅に似た方法を考えるのだろう。でもいつになるのだろうか。子を産み育てる行為が邪魔をするから。一人静かに天に向かって対座する
のは困難だ。セックスをし、子を育て、悟りを開くということは不可能なのだろうか。この世の全てを受け入れることを悟ったということに換えられないのか。だ
が、全てを受け入れる心の誕生の方が難しいのかもしれない。煩悩や罪悪の全てを受け入れる心なんてつくれるだろうか。法の誕生が悟りを遠ざけたのだ。宗教の
誕生も悟りを遠ざけた。人生をより良く生きようとする心が勝って、かえって悟りから遠のいた。ほんとに人間は不可思議な生き物としてこの世にいる。)
宗教から芸術は始まった。自然に対しての畏れの気持ちが宗教を生み、それを表現することから芸術は誕生した。神秘性の表現は芸術の初期段階である。花
鳥風月の全ては神秘であるからこの対象となったのは言うまでも無い。無論人間自身の表現も初期的には神の化身の如く表された。否、神の表現が人間をモデルと
して創出された。縄文土偶や仏像、ギリシャ彫刻に端的に示されている。人間の神秘性が神と融合していた時代だ。ところが次第に人は人として描かれ、人故の喜
怒哀楽の表現こそが対象となって行った。現在では、自由を如何に表現するかに集約されている感がある。自由とは作者自身の表現の自由である。描きたいように
描くという自由だ。対象がなんであれ描きたいものを描きたいように描く。これが、現在の解放された芸術である。果たして次はどこに行くのだろうか。この秩序
無き自由(少なくとも私にはそう見える)はてんでばらばらの、芸術とも言えない作品を作り出している。見るものにとって決して美とは見えないほどに。芸術本
来の目的を全く意識していないかのような作品が群をなしている。神を表現する。人間を表現する。はっきりとした神秘性を持った表現芸術の時代の方が見る側に
安心感・幸福感を与えていた。芸術の存在価値は見る側に「生きる意欲」を「生きていて良かった」を味わわせることにある。見る側の希望と幸福感を奪った芸術
に明日は無い。
芸術の題材の多くを占める自然、花鳥風月は田舎に住む者にとって、確かに生きる意欲を湧き立たせる。畦道、山道を歩き、小鳥や野の花に心を奪われることは
多い。これは生きていることを幸福に感じている証拠である。芸術家が人に生きる意欲を与えることで、その行為が成り立っているなら、自然を描くことは当然であ
ろう。しかし、私はそれだけでは満足できないのだ。人が欲しい。愛でる心をもつことが出来る、唯一の生物である人が欲しい。そして愛を表現した芸術こそが芸術
と呼びたい。
人が抱く希望はパンドラの箱に残されていた。残されていなくても、希いや望みを持たなくても、人は生き続ける。蚊やゴキブリや多くの生き物達が命を全 うするように。神が創造した全宇宙に存在する生命は、神に辿り着くまで短い命を繋いでいく。短い自分の命を子孫に次から次へと繋いで永久の時を生き続ける。 宇宙が滅んでも次の宇宙に生命を繋ぎ、神の下に辿り着く。必ず。それが神の創造した生命の使命だから。このことをファーブルはこう言った「学問は誤っても本 能は誤りを犯さない」と。
カザルスを聴くということは、8世紀グレゴリオ聖歌に始まる西洋教会音楽から現代音楽までを聴くことになる。教会音楽とは言うまでも無くミサ礼拝音楽 だから、カタルシスを感じる音楽に相違ない。神の音楽と言ってもいい。一方現代音楽は人間が人間を表現しうる可能な限りの自由の極致である。弾きたいように 歌いたいように弾き歌うのだ。バッハを通してカザルスが身につけた音楽とは、この10世紀以上に渡って展開、進化してきた音楽の厚い層を表現することだ。だか ら、カザルスのチェロを聴けば音楽の全てがわかる。
山之辺の道・玄賓庵から桧原神社、笠道に出て東に進み途中で巻向山・奥の不動寺道に逸れる。本堂東の裏山を登れば三輪山から長谷寺に到る尾根に出る。 ほとんど獣道だが2000年以上遡れる、神々の住む聖なる神域である。勿論今も、神奈備に相違ない。左手に暫く行けば麓の十二柱神社の御神体として崇拝されてい る磐座に到る。この磐座、大阪城の蛸石より重いだろうことは一見してわかるほどだ。一直線に南に下りこの神社の境内を覗けば野見宿禰の墓と伝えられる五輪塔 が視界に飛び込む。日本書紀によれば第11代垂仁天皇7年(B.C23年)に當麻蹶速と初めて天覧相撲をとって勝利し、殉死の禁止により、代わって埴輪を埋葬するこ とを提案、後に土部臣と改称、彼の後裔が天皇一族の葬儀を司るようになったとある。あと半分だ。165号を西に黙々と歩み近鉄朝倉駅を横断、千所帯を超えたであ ろう朝倉台団地を抜ければ、鳥見山麓に出る。道無き登山道、枝を掻き分け景色も見えぬ山頂で休むことなく、山裾の等弥神社に下りる。清楚な紅葉が大昔の人々 の足跡とともに迎えてくれた。確かにここは大和だった。流石に重くなった足を励まし西に行けば土舞台にでる。推古20年聖徳太子(574?-622)の御世に造られた 日本最古の舞台だ。毎年地元の有志が土舞台の顕彰をして守り伝えているのが嬉しい。周辺は発掘中で側溝が何本も掘られて赤土が過去を見せていた。さあ、あと 4km。途中、吉備池廃寺(百済大寺)跡を右手に、振り返る余裕も無く我が家に辿り着いた。
一人で山道や夜道を歩けば、自分が見えてくる。自分という人間がどれだけの存在なのかが感じられる。如何に小さくて頼りないのかがわかる。強がっても、 夜空の星には見透かされていると思う。でも、人は二人になると支えあって強くなれる。なのに、人込みの中では、人はゴミになってしまう。人間でなくなるのだ。 自分を見失うからだろうか。他の影響を受け過ぎて自然や天の声が、聞こえなくなるからに相違ない。見えなくなるからに相違ない。人は孤独の中で「自然」に教 えられ自分を知ることができる。こうして、漸く「人」を知ることが出来て社会を形成することが可能になるはずだ。現代社会では、この自然の中での孤独が味わ い難い。人込みの中でばかり育っているからだ。ゴミになった人間がつくる社会が、ゴミで溢れるのは当然のことだった。人口が増えて自然の中での孤独がますま す遠ざかる。人が増え続ける限り自然との共生も不可能だ。人が育つ環境はヒトゴミの成長で悪くなるばかりである。
人は確かに生かされている。答えは明瞭。「生きている」が簡単に否定できるから。空気や水がなければ、人は生きていけないどころか存在もしない。空気 や水は神の手の中にある。孫悟空の飛翔の落書きと同じ。一歩たりとも離れられない。だが人は生かされているだけではない。生きていこうとする意志がなければ、 すぐ死ぬことも出来る。生かされている、が、死を選ぶことも出来る。死と生の表裏がここにある。生きようとする強い意志が人を人たらしめている。他の生命に はない人だけの特性だと思う。神にインプットされた本能だけではない、生への意志が人をつくっているのである。だからといって、神の掌からは微塵も出てはい ない。ダーウィンの進化論が正しければ、この生きようとする意志が人にいつの過去にか生まれたのだ。強靭な甘い死への誘惑に打ち克って誕生したに相違ない。 人類の滅亡に繋がるような恐怖の世界からの逃避としての死。形容し難い阿鼻叫喚の世界。このような生き地獄を乗り越えて、生きようとする強い意志が人に備わ ったのだ。また近い将来そんな時代が来るかもしれない。
プラトンの「饗宴」人間は昔、男と女が合体して一つであったという「おとこおんな」の話も、モーゼの海が割れる話も、アダムとイヴの楽園の、林檎の話 も、ノアの箱舟の話も、キリストの贖罪の話も、全て人類のリセット感覚が生み出した話である。梅原猛がいうように聖徳太子を鎮魂する藤原氏の思想と同じ発想 である。人は悪を続けて生きている。悪を行うことなくして、この世では生きていけないのだ。その悪に終止符を一旦打ちたいという思いがこのような話を生み出 したのだろう。物心がつき始めると人は生を貪りだす。虫を殺し弥勒菩薩の十善戒にある全ての悪を行う。長く生きれば生きるほどに。それ故に悪から解放された くなるのだ。今までの悪に終止符を打って、一から始めたくなるのだ。そんな人間の心が生み出した話に相違ない。
さあ、果して何人の賛同が得られるだろうか。死は甘い誘惑である。人は死が怖いのではない。死による別れが辛いのである。死とは肉体のないことだから、
肉体がなければ五感は存在しない。五感がなければ当然痛みはない。死後は無感だ。怖く感じることも出来ない。だから心身苦痛の人生の中で死という甘い誘惑にか
られるのだ。五感が苦痛で疲労すると死にたいと思うのである。死のうとする心には死の恐怖などはない。死こそ天国なのである。
五感の無い天国が素晴らしいと思う心の姿に、何を見ればよいのだろう。例えこの世は仮想の真理なき世界であったとしても、この五感を捨てる意義があるだろう
か。色は鮮やかで音は夢見心地、芳香は酔いを誘い旨味は満足感を、触覚はエロチシズムである。四季の移ろいの美しさを捨てることなど考えられない。色の無い音
の無い味の無い天国や極楽に今すぐ行く意味などあるはずがない。人は生き続けてこそ真の五感を知ることが出来る。五感の無い世界、悟りの世界が例え真理の世界
といえたとしても。
否しかし、死も真理世界には存在しないだろう。何故なら神という真理にとって死は有り得ないから。真理にとって死は無い。五感も死もない真理の世界ほど辛い
世界は無いように思われる。五感に生きるものだけが思うことなのだろうが、死ぬことも出来ない世界には耐えられそうも無い。
今日の福祉の行き詰まりは「生」に対する保障制度の行き詰まりと言える。健康保険・年金等「生」に対しての福祉は人口増加が大前提である。しかし、人口の
増加どころか減少が迫っている今では、今日的福祉の継続は確実に困難である。福祉のあり方を変えなければならない。「生」の福祉から「死」の福祉へと。死に
対しての福祉とは、大義名分のある名誉ある死に演出することによって成り立つはずだ。否、もともと死とはそういうものだ。国家が国民一人一人の死を手厚く弔
う福祉のことである。国家の責任において葬儀を行う死の福祉である。全ての国民の死が安眠できる死の儀式を国家が行い、これを福祉とし、「生」の福祉は完全
に撤廃すべきだ。これは国民が生ある間、国家社会に貢献したと国家が認める福祉になる。一生に一度の福祉でよい。語弊を覚悟で言うならば、今の福祉社会は死
に難い。さらに覚悟して言い足せば、死に難い世から死に易い世への転換といってもよい。
心の浄化が必要なら山に一人で登ればよい。その時感じる畏れが救ってくれる。誰の力も要らない。自分が汗を流して山頂を目指せば、それだけで浄化され
る。下界に戻れば、すぐに汚染されたとしても。浄化する山とその心がある限り人は人としての人生を歩むことが出来る。それで良い。だが、一人で山に登っても
畏れを感じなくなったら、いつ死んでもよい。
それにしても暖かくなって熊蜂が頭上を騒がしく舞っている。この蜂は神の僕かもしれない。丸くて大きな黒い身体を、器用に羽を使って、停止するかのように
旋回している。いつも頭上でブンブンと煩いのだ。縄張りがあるようで一匹の下を3m程過ぎれば、もう付き纏う事は無い。次の蜂がそのかわり、待ち構えてい
る。2002.5.27
棚田の畦に多い彼岸花のわけをTVで知った。土竜が嫌うらしい。土竜は曼珠沙華の球根が苦手なのだ。土竜(当地ではオンゴロという)を捕まえて土地の 区長に持っていくと数年前までは買い上げが有った。一匹300円くらいだったか。今でもまだこの買い上げの風習が残っている地区はあるだろう。それほど米作り には厄介な動物である。畦に穴をあけて水田の水を抜いてしまうのだ。稲の成長にとって最も重要な水は、棚田のような水の供給が困難なところでは一層貴重であ る。その一滴が勿体無いのである。それにしても今年の曼珠沙華は大漁だ。真っ赤に畦を染めている。赤の目眩ましにあって他の草も花も隠れて見えない。あの世 とこの世の境に咲く花が、あの世とこの世を結ぶ華が、美を通り越して鮮やかである。
人は先祖の遺伝子を継承して存在しているから、何代にも亘っての先祖に似ている。何処まで科学的に遡れるかは定かでないとしても。似ているというのは、 先祖の好みを踏襲しているということでもある。だから、一目惚れは、理由も無く惚れたのではなく、先祖の好みで惚れたのだともいえる。また、多くの先祖の遺 伝子を同時に保有しているから八方美人になってしまうのも不思議ではない。輪廻転生・因果応報もまた然りである。つまり仏教思想は科学的に見ても正しいとい うことなのだ。話が大きくなったついでに、遺伝子的思考に従えば、この世の次にあの世があり、あの世の次にも次の世が有るということになりはしないだろうか。 無論、この宇宙にも適用されるのは言うまでも無い。
宮沢賢治作は死後宇宙の星になれる。何故だろう。自然と自然(人間)の共生を説いているからである。それは、人間が普段殺生している動物に逆に喰われ るという、或いは殺されるという発想にあらわれている。共生とは究極のところ立場が正反対になることなのだ。この理論が理解できないと共生思想がわかったこ とにはならない。人は人の死を共生の観点から見なければ、死を有意義なこととして感じられないだろう。死もまた生と同じように大切なことなのである。
草刈りのシーズンが来た。ただ我武者羅に草刈機を振り回す目の前に、一匹の蜂が飛ぶ。進路を塞ぐように。刈り倒された草から丸見えになった地を這う虫 たちが、鳥の餌になっていく。草刈りは、鳥の餌つくりも兼ねていることになる。人にとって心地よい環境作りは草や虫達の死活に関わる。暖かい季節は根無しの 草をあっという間に赤く染める。枯草色は好きだ。命を失った色が好きだとは傲慢が過ぎるかもしれない。紋白蝶が舞う。七星天道虫が這う。団子虫が躓く。土蜘 蛛が逃げ惑う。眠そうな蝦蟇蛙も手足を伸ばす。白日から隠れようと大忙し。天敵の襲来を避けようとしているのだ。そんな虫達を尻目にチップソーは唸りをたて る。蜂だけが彼等の正義の戦士なのだ。
一瞬の美が無ければ、この世の存在価値は無い。千変万化する世界にあって、真実とは、変化のこと。この変化の中に美がある。一瞬の美が。人間の青春の ように、煌く瞬間がある。またファジーな美もある。それは、四季の移ろいの中に節分という、曖昧な美があるように。冬でも春でもない美。夏でも秋でもない美。 そんな美も、愛もある。
擬態によって小枝のような色や形をしている。晩秋から初春では、特に見分け難い。枯葉の季節が彼等の春のようだ。緑多き季節には勿論、若葉色に変身す
る。芸術家も変身した。
絵はシャガールの純真無垢な愛。愛の旋律カンディンスキー。音楽はショパンの可憐。シューベルトの甘い囁き。蕩ける愛シューマン。トキメキのグリーグ。
優しいモーツァルト。心地よいヴィヴァルディ。チャイコフスキーの絢爛。ビゼーの激しさ。郷愁のドヴォルザーク。リムスキーコルサコフの童話。ブルックナ
ーの宇宙散歩。迫真のワーグナー。ドビュッシーの夢想。片思いのムソルグスキー。怒りのハイドン。ショスタコーヴィッチの爆発。ヘンデルの華麗。ヨハンシ
ュトラウスの誘い。メンデルスゾーンの抑揚。鎮魂のヴェルディ、ベルリオーズ。メランコリックブラームス、バルトーク。動揺のラフマニノフ。バッハの深奥。
ベートーヴェンの力感。クライスラーのストリートミュージック。頑固なシゲティ。コルトーの浸透。底抜けの明るさトスカニーニ。魂の震えフルトヴェングラ
ー。そして、カザルスの包容力とホロヴィッツのエロス。
私にとって音楽とは、バッハの教会カンタータのことである。現存する200曲に及ぶ教会カンタータを聴けば、心の隅々までが洗われて、生きていることのあ
りがたさを味わうことが出来る。一曲の一音にまで無駄の無い音楽は、生死の狭間に立っても、希望が湧き勇気に奮い立つ心を誕生させる。
「人間が生きることを助ける役割を果すのが美術の使命」という観念を体感できる。
ダンノダイラの磐座を見に行った。朽ちかかったしめ縄が象徴して土に隠れそうになっている。神々が隠居しているかのようだ。ほんの少し前までは、も っと威厳を持って勇姿を見せていたに違いない。文明の名が神々を覆い隠した。星が見えない、宇宙の光が射してこない文明の地球になった。人間が築いた文明 は光を遠ざけ、神を遠ざけた。光の無いところには何も無いのに。嘗て人は光を求めて、より星に近いところに聖域をつくった。山の頂上に天壇をつくって光を、 神を迎え入れた。いま、人類の文明の光は地に貼り付きビルの闇を照らすのみである。光が神と共に有ることを意識しようともしない。人のつくった神無き光は、 人の心を闇にしたのである。