あるじ の言いたい放題   2001




奈良新聞社(1976.4〜1977.1)わずか10ヶ月のこと

  福田ゼミにいた70年代の前半では、まだインターネットは勿論のこと、FAXもなく、コンピューターさえも一般には全く普及していなかった。唯一コピー機 だけは、試験前に大繁盛していた。
 このゼミの主たる課題は、マス・メディア(媒体)の歴史と、個々の新聞社(朝日・毎日・読売・日経・産経)、いわゆる全国紙の経営に関する学習と討論だっ た。それぞれの新聞社の発行部数に始まって、日本のどの地域に強い地盤を持っているかとか、発行部数を増やすためにどんな方法を使っているかとか、発行部数 の持つ意味、などである。
 別に新聞社への就職には、直接関係のないゼミ(もっともこのゼミは就職に関してまったく不親切であったのだが)なんだが、ただ新聞について勉強したために、 新聞社の門を叩くことになった。
 もともと家業があったので、長くいるつもりはなかったが、好きな仕事ではあった。何せ世界の情報が誰よりも早く通信社からの打電で、知ることが出来た。僕 の仕事は写真植字機で、編集室から送られてくる、新聞の見出しを撮ることだった。延べ一時間位でおしまい。残りの時間つぶしは、世界の情報をくまなく読むこ と。新聞に載らないこと、いっぱい知ることができた。知ったところでどうってことないのだが。
 50倍の狭き門をくぐって入社したわりには、あまりにもそまつな会社であった。まず経営者が新聞の事を知らない、薬局の薬学博士だった。また肝心の情報が奈 良県では、あまりにも少ない。定番の花便りや神社仏閣の祭事だけでは、紙面は埋まるはずも無く、当然見出しは大きくなる。地方新聞の悲しい現実である。唯一、 選挙結果を報じるとき位が、忙しさを感じさせた。
 朝11時出勤 20時退社の繰り返しで日々が進んでいく。11時に「おはようございます」というのが、なんだか夜の商売みたいで、滑稽に思っていた。
 出勤時は列車が違ったけれど、帰りの時間はたいてい一緒だったKさん、一年先輩で朝倉から通勤していた。名前を忘れたのが、そもそも彼女に対しての、当時 の僕の気持ちを表現しているようなのだが、清楚で無口な人だった。彼女の飾らない、まっすぐな表情をいまでもハッキリと覚えている。彼女は編集室、僕は制作 室、ドア一枚で隣り合わせの部屋だった。出入り自由の世界なので、帰りに列車ではじめて居合わせた時も、すぐ同じ会社の人だとわかった。奈良駅から三輪駅ま で約35分のおしゃべりを、そのとき以来楽しんでいた。忘年会、新年会も終わって、そろそろ辞めようと思っていた頃、なぜか結婚の話になって、僕が「まだ結婚 しないんですか」というと「じゃあ、もらってくれる」と彼女がいった。普段なら冗談ぽく「ああ、いいですよ」とすぐ言えたのに、その時の僕は言葉を失って、 目を合わすことも出来ないまま、はやく三輪駅が来ることを願っていた。
 しばらくして一月末、彼女に「さよなら」の言葉さえ言わず、奈良新聞社を辞職した。



唐豆

 「面倒臭くないの。お父さん」娘にそう言われながら、ひとりせっせと殻付の唐豆を剥いては、頬張る。食後の決まった風景である。さして大喰らいでもなく、 食事は10分と懸らない。徐に、椅子を離れて行き着く先は、唐豆のテーブル。ゴツイ手が入るように目一杯破った袋から、一握り掴み出す。
 食卓の指定席に戻り、握り締めた掌を開くと広がって殻付が崩れ落ちる。てんでばらばらになった開放感も、好きだ。偏屈な恰好をしているが、憎めない。まるで 俺そっくりだ。そんなことを思いながら、共食いを始める。
 もう亡くなって30年近い、祖父が落花生の事をこう呼んでいた。中国から伝わった豆だから、らしい。今も昔も、こどもにとっておじいさんは、温い。皺皺の ゴツゴツの黒くなった掌に、器用に剥いてくれた唐豆をのせて、食べさせてくれたのが懐かしい。
 懐かしいから頬張るのではない。50近い齢になって、作業しながら食べる事が楽しくなってきたのだ。平均二粒、悔しい事に偶には、ひと粒の、嬉しい事にも っと偶には、3粒入った殻を割る。唐豆もコーヒー豆も煎り方が難しい。過ぎると焦げ臭い。足りないと青臭い。適度な水分量というのが旨味なのだ。殻の筋目に 添って割れるのだが、親指でぐっと力を筋目の上にかけて、ぱちっと音がなった瞬間、偉業を成し遂げた錯覚に陥る。もう逃がしはしない、俺のものだ。覗いた豆 にそう囁いている。
 一粒口に放り込んだ瞬間から、沈黙が続く。モクモクと今度は殻だけが山になって行く。偏屈が変身して崩落し新しい山になったのだ。「片付けといてなぁ」食 べ終わるや、またしても娘のツッコミ。未だ嘗て片付けた事が無い。
(2001.5.31)



「西郷隆盛」―敬天愛人―の言葉

 西郷は人の平穏な暮らしを、決して、かき乱そうとはしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入 口に立ったままで、だれかが偶然出て来て、自分を見つけてくれるまで待っているのでした。


― 天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても奢らない ―


― 天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天の為になせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ ―


― 法は宇宙のものであり自然である。ゆえに天を畏れ、これに仕えることをもって目的とする者のみが法を実行することができる。……天はあらゆる人を同一に愛 する。故に我々も自分を愛するように人を愛さなければならない(我を愛する心をもって人を愛すべし)―


― 文明とは正義のひろく行なわれることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない ―


― 我が家の法、人知るや否や。児孫の為に、美田を買わず ―


― 人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分どおり成功していながら、残り2分のところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功がみ えるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである ―


― 命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのでき る人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である ―


― 断じて行なえば鬼神もこれを避ける ―


― どんなに方法や制度のことを論じようとも、それを動かす人がいなければ駄目である。まず人物、次が手段のはたらきである。人物こそ第一の宝であり、我々 はみな人物になるよう心がけなくてはならない ―


― 正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従 うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。(正しかれ、怖れるな)―


 今日、雨後の三輪山に登った。まだ中腹から上は霞んで、視界が10メートルくらいだったろうか。山頂の高宮神社で手を合わせると、汗の一滴が足下の小さな 水溜りに落ちた。深く礼をして、その水面にボンヤリと映った自分の顔を見つけた。その時不意に、脳裏に卑弥呼の銅鏡のことが浮かんだ。まだ鏡の無い時代に、 自分の顔を知ることは大切なことだったに違いない。人は何万年も前から、自分を知るということに強い思いを抱いていたのだ。だから、魏王は女性の卑弥呼に鏡 を送ったのであろう。自分をもっとよく知りなさいと。そんな思いが過ぎった登山であった。(それにしても、人は、誰も、直接自分の顔を見ることは出来ない。)
―2001.3.1― 



文字の無い時代

  文字は西暦538年 欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや・奈良県桜井市金屋及び城島小学校付近)に、百済の聖明王がはじめて仏像・経典 を献じたときから、わが国ではようやく使われるようになる。ただし読み書き出来たのは、当然超上層階級だけであることは、言うまでもない。<
 古事記712年・日本書紀720年・万葉集759年が、現存する最も古い文字を書き残している。
 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志 宇流波斯 (大和は 国のまほろば たたなづく 青かき 山ごもれる 大和し  美し)と古事記では書いた。まだ ひらかなもカタカナも無い時代のことである。
 593年 推古天皇即位のもと聖徳太子が摂政となって冠位十二階(603年)を制定する。有能な人材を家柄の差別無く登用するのが目的であった。また憲法十七 条(604年)を定める。最大の眼目は豪族の横暴を抑え、天皇の権威と官僚組織の秩序を維持することにあった。一方、朝鮮半島におけるわが国の権益を守る必要 から、新羅に対して優勢を保つべく中国(隋)に接近しようとした。これが遣隋使の派遣である。小野妹子を遣隋使として派遣する(607年)以前、すでに遣隋 使(600年)を派遣している。しかし、冠位もなく身分もはっきりしない者に、隋の煬帝は接見しなかった。このことが、聖徳太子が冠位十二階や十七条の憲法を 制定する、きっかけになったといわれている。
 遣隋使としての小野妹子の冠位は、上から5番目大禮であった。国書に曰く「日出処天子、致書日没処天子、無恙、…」は、あまりにも有名である。後に小野妹 子は、最上の冠位大徳冠に上りつめる。
 この国書を見て煬帝は、激怒したと伝えられている。煬帝の怒りは見当違いだったのではないだろうか。私はそう考えている。自分以外の天子は認めないという 怒り、対等外交振る舞いに対する怒り。
 最初の遣隋使を派遣した時に、聖徳太子はすでに煬帝の性格を知っていたはずである。隋に接近することが目的であるのに、あえて煬帝のご機嫌をそこねる必要 があるだろうか。
 538年に仏教とともに初めて文字がわが国に伝えられて以来、わずか70年足らず、一体どれだけ文字を解釈できていただろう。<
 文字のなかった時代、正確に表現し伝達する為には、一切の紛れを排除した内容でなければならなかったはずである。二つ以上の解釈が生まれないように口伝す る必要があった。口伝と記憶の連続によってのみ、過去の事実を伝えてきた。それ以外に当時、方法はなかった。記憶には限界がある。人間なら誰しもが知ってい る記憶の限界。正確に、紛れなく、記憶の限界に挑戦しながら口伝するには、自ずとその情報の贅肉を切り落とし、真実と核心だけにしぼらなければならない。何 人もいたであろう口述人の責任は、文字を持った現代の人間には想像を絶するほど、大きかったに違いない。
 はじめて文字を書いた時を、思い出してほしい。真実以外の何も書くべきことが、自分の中になかったことを。ただただ、自分が知っていることを、懸命に書き 綴ったことを。
 日出処・日没処はともに、自然現象を使った紛れのない方位・方角を表している。天子とは、古代中国(1世紀頃)では天にかわって民を治めるものを言う。聖 徳太子が「天子」に関してどういう解釈をしていたかはわからないが、煬帝の機嫌をそこねることを、あえてするとは考えられないのである。
 東の民を治めるものから、西の民を治めるものへ…といった単なる実態を表現したものではなかったか。天子は世界にただ一人と考えていた煬帝の、天子という 文字の勝手解釈だと思うのだが。
2001.6.11



  私たち人間が聴くことのできる音の範囲は、振動数で毎秒16〜30000までで、それ以上やそれ以下は音として知覚できない。この範囲で、実際に音楽(オー ケストラの楽器)に用いられているのは、振動数にして32〜7000の間である。さらに人間の声だけに限れば、80〜1000のあいだに過ぎない。音楽に使われている 音域は、以外に少ないといえる。
 音は、騒音と楽音の2つに大別される。音楽につかうのはもちろん楽音で、楽器は、楽音を出す道具である。楽音とは、振動の仕方が規則正しく一定の高さをも っている音のことである。騒音とは、振動が非常に不規則で、一定の高さを持たず瞬間的に変化する音のことである。
 振動が続いている時間の長短を音の長短といい、振動の振幅の大小が音の強弱になり、振動数の多少が音の高低となる。そして、同じ高さ、同じ強さで奏して も、楽器によって音の色合いが違うが、これを音色という。
 音楽は、音の長短・強弱・高低・音色の4つの性質を表現の材料としている芸術なのである。
 絵画は3原色(青・赤・黄)と白の4つの色を表現の材料としている芸術である。もっとも、水墨画は白と黒だけなのだが。
 絵画の形を表す「線」とその「色彩」に対して、音楽のメロディとハーモニーが符合している。そしてリズムは、芸術のみならず宇宙全体に流れている。
 また、一つのメロディをハーモニー等で装飾した作曲を単音楽(monophony)、二つ以上の独立したメロディを同時に、しかも相互の関係を保たせる方法を対位 法といい複音楽(polyphony)と呼ぶ。
 複音楽は中世(5C〜14C)の宗教音楽において頂点に達し、ルネッサンス(14C〜16C)以後は、単音楽が盛んになり現在に至っている。ただバロッ ク(17C〜18C)後期バッハの対位法は、燦然と輝いている。そしてバッハ以後は、単音楽全盛の時代になる。グレゴリオ聖歌を代表とする宗教音楽から器楽音楽 の独立を導いたバッハは、同時に単音楽発展の基礎をつくったともいえる。300曲以上の教会カンタータを作曲したバッハだからこそ、楽器を独立させることがで きたのである。



正言講 2001.10.14

  大神神社に対する宮座として我村茅原には「正言講」がある。この座には古びた小箱があって、その中に書き継がれた巻物が納められている。慶長15 年(1610)から絶える事無く書き継がれている。其の為小箱は現在2箱ある。何を書き継いでいるのかは、後で述べる事にしよう。
 この座は「おはた」とも呼ばれているのだが、年に二度春と秋に営まれる。1995年から4月と10月の第2日曜になったが、それ以前は4月11日と10月の卯の日(こ の月に卯の日が2回の時は第1卯の日、3回の時は第2卯の日)となっていた。昭和30年代半ばまでは4月8日にも営まれていた。
 現在講員は12軒であるから、当屋はいつも同じ干支の歳に回ってくる。多い時は25軒あったから25年経たないと当屋が来なかったのだが。
 当屋になると4月9日大神神社春の大祭の前日8日に、参詣して申上料を上げる。昭和30年代半ばまでは、この日も当屋でお祭りをし、直会(なおらい)をした。当 日(11日)になると、前年の当屋と本年の当屋が引継ぎの儀式を行なう。今年の当屋が7回半前年の当屋を訪れて座をつとめることを報告する。ここでいう「半」と は、神さん(古びた小箱のこと)を8回目の道中で引き継ぐからである。前日(10日)前年の当屋は「おはた」が明日営まれるので時間までに、拙宅に集合してくだ さいと残り10軒に出向いて告げる。翌日集まった11軒は、神さんを祀って長押から下ろし、道中で当屋に引き継ぐのである。この時、神さんの他に「倭大物主奇甕魂 命」と書かれた掛け軸も引き継ぐ。現在の揮毫は大神神社の数代前の神主である。
 実は、引き継ぐものはこれだけではない。直会で使用される茶碗、汁椀、膳、盆、三方も木箱に納めて11日までに一足早く引き継がれている。
 道中で集合した12軒が当屋に着くと、予め用意された床の間の、長押の上に天井から吊るされた神棚に「神さん」を祀り、床の間に掛け軸を掛ける。この神棚 は12本の割竹を小縄で編んで作り、閏年には13本にする。神棚の前に虎と呼ばれるしめ縄をしておき、神さんの両脇には榊をいれた2本の花立てを置き、2個の燭台 に蝋燭を点す。神社参拝の作法に則り、当屋に合わせて2礼2拍手1礼をもって祀る。
 いよいよ直会つまり宴会が始まる。当屋の「これから正言講を務めさせていただきます」の挨拶のあと、まず、当屋が屠蘇器に床の間に祀られた御酒を入れ、来年 当屋を務める正座から順番に御酒を注いで廻る。この順番は決まっているので、最初着座する時に全員で確認する。あと何年後に自分が当屋になるのかを確認するよ うなものなのだが。一通り注ぎ終わると無礼講になる。否、無礼講にしなければ「おはた」をする意味は無い。
 直会は3時間以上に及ぶから、この間を利用してさらに詳しく「正言講」について述べてみよう。
 まずは講の構成員の、資格である。講員12名の口伝によれば、現在茅原と呼ばれる集落を形成した最初の構成員だと言う事だ。そして、この最初の家から独立した 村親戚までが、講員に入れる。だから、現在退座している元講員も、茅原に住む限りにおいては、いつでも復帰出来る。逆に、最初の構成員以外の者は、絶対入る事 は出来ないという性格を持っている。ただいつ頃この集落が作られたかは口伝されていない。少なくとも慶長15年以前である事は間違い無いと思われる。
 この行事の内容を簡単に述べれば、講員が所定の日に参集し、神さんを祭り、直会をし、大神神社に参詣するということである。
 所定の日に参集し神さんを祀ることまでは、先に述べたので、次に直会について述べてみよう。
 直会(宴会、会食)は午後2時頃からはじまる。食事の献立も決まっている。4月の献立は、膳に鰤の焼き物、煮物として里芋、牛蒡、平の吊り干し大根、ワケギの 酢あい、刺身、板蒲鉾1枚がつく。付き出しとして、筍・高野豆腐の煮付け、鰤のアラと水菜の炊いたの、漬物が大皿に盛られる。そして白飯、汁物は賽の目切りの豆 腐、木の芽入り澄ましとなる。最後に、床の間に祀られた御酒を汁椀1杯になみなみと注ぎ、これを2つの椀に分けて正座(次の当屋)から左右に1椀づつ回し飲んで行 き末席の者が残りを飲み干す。シコタマ飲んだ後の冷酒はよくマワルので、末席はつらい事になる。
 10月は直接当屋に集合する。この月の献立で特筆すべきは塩餡の一合餅である。膳にこの餅を3枚重ねた椀が出る。これを藁で切って食べる。勿論噛み切ってもいいの だが。3枚を食べた者は、5枚出る。さらに5枚食べた者は7枚出る。現在ではありえないことだ。最初の3枚で3合を食べ尽くす事でさえ出来ないだろう。澄ましは揉み 豆腐を入れる。
 昔はこれだけの餅を食べたのだろうか。狭井神社(大神神社境内北側、三輪山登山口)の北側・木取川に一反半の講田があったらしい。この講田から正座は「おはた」 の営み料として6斗2升5合をいただいていた。
 現在は会費1.000円で、仕出屋から3.500円の折り詰めをとっている。当屋の持ち出しは、今も昔も変わらない。
 また、床の間には三方が三個あって、海の物(だいたいは鯛)、山の物(筍、きのこ類)、里の物(果物類)を供える。
 話を戻して、この古い小箱には小縄が7周半巻かれている。これは、御神体三輪山には蛇が7周半巻いているという古来からの言い伝えを真似たものだろう。それ故 この小箱は神さんと呼ばれるのかもしれない。
 さて、小箱の中には2箱合算して170m以上にも及ぶ宮座文書が入っている。最初に述べたように書き継がれてこの長さになったのである。書き継がれた事、それは 名前である。正言講に参加したものの名前である。この名前を遡れば自分の先祖が見えてくるのだ。この座は、一言で言えば今では、先祖祀りの講だと言えるのかも しれない。
 因みに今回書き継がれた名前を当屋から順にあげてみよう。中口勇、池田龍三、嶋岡一郎、増田正、味波勝、嶋岡光夫、中口楢雄、嶋岡武彦、池田利一、北村楢克、 増田幸逸、乾全良の12名である。
 「さあ、ボチボチ明神さんに御参りしましょうか」正座・池田龍三の声がかかり酔っ払いが動き出しました。これでおしまい。
 そうだ、大変な事を忘れていました。「おはた」は女人禁制なんです。お許しください。



…お世話になった奈良学園の一年間…

「キリンくらい首を長くして」

 両親が出生届を出さなかったため、戸籍も身分証明書も持っていないイラン人少年が、いることを知っていますか。身分証明書がないため、学校にも行けず仕事を手 にすることも出来ない少年が、いることを知っていますか。(イラン映画「ぼくは歩いてゆく」)
 この少年の夢は私達が当然のように持っている、戸籍や身分証明書を手に入れることなのです。私達の当たり前とこの少年の夢が、地球上の人間社会の中で同時に並 行して存在しています。
 この少年の「今」から君達は目を逸らしてはならない。確かに君達の今(それを受験とするなら)も、認めなければならない。しかし、同じ時間と空間を共有してい ながら、この相違は何なんだろう。私は君達がこの少年の今から目を逸らすことなく、自分の今を生きて欲しいと思っています。君達には君達の世代にできる現実社会 での種々の貢献が、確実に目の前に在ります。k君が電車の中で女の子を痴漢から救ったように。
 「学ぶことと生きることの間の関係が、錯綜したシステムの中に埋没して実感できず、学ぶことが悦楽のためとしてしか語られない時代になり、そのことが学ぶこと を苦痛にさせている。」と佐藤文隆氏(京大教授)が述べられています。君達が学ぶことばかりに気をとられ、生きることから目を逸らさざるをえない時代になってい ることも事実です。
 しかし、同じことの繰り返しになりますが、私は君達が生きることから目を逸らすことなく凝視し、尚君達の知を学んで欲しいのです。そうすることが、君達自身を 救うことにもなると思うからです。
 意見を待っています。キリンくらい首を長くして… (K君は本高校の3年生、冒頭の少年はまだ9歳)
 E-mail:katuaki@oregano.ocn.ne.jp
 来年の春までよろしく    2000.5.31


「十七歳の夏は一度しかない」

 大人達は忘れているんだ。17歳の夏が一度しかなかったことを。確かに人生の齢の数だけ皆、夏を経験できる。失敗も亦、人生の中で修復することが可能だ。受験 や恋愛という多感な10代の最大関心事さえも、希望と情熱が心にある限り、再び三度挑戦できる。なのに、17歳の夏は一度しかない。
 このことに漸く思い至った時には、NG祭が始まろうとしていた。大阪冬の陣、家康の子、後の紀伊頼宣は「我が13歳の先鋒の時またあるべきか」といって、涙し た。後陣に置かれたのだ。戦において先鋒は即、死を意味するにもかかわらず。武士の名誉にとって、死はそれほどに廉価だった時代のこと。(新渡戸稲造「武士道」 )
 頼宣の13歳も君達の17歳も一度しかない。一度しかない夏が確かにあったはずだ。青春を知るということは、このことだった。大人達は、夏の繰り返しの中で、 青春を生きた意味を埋めてしまったんだ。その深い皺の底に。
 君達に出会えてよかった。ありがとう。(2000.9.26)


「卒業式」(2001年1月30日)

 まず6年の長期に亘って、子供達を指導して頂いた奈良学園の先生方を始め、関係者の方々に心から厚くお礼を申し上げます。
 また、ご列席の保護者の皆様、本日は本当におめでとうございます。特にお母様方の心労を察すれば、おめでとうございますの一語が、強く私の心にも響きます。さ らに、この場をお借りして今日までの育友会活動への御協力に深くお礼を申し上げます。
 「卒業」君達にとって高校の卒業という言葉は、どんな意味を持っているのだろう。私には、死との訣別であったように思う。自分の存在そのものにさえ矛盾を感じ、 死という甘い誘惑に溺れそうになっていた青春。そんな死と訣別して「生きる」という強い決意を抱くこと、それが私の卒業であったと思う。
 「生きる」そう決意した私には、生きる実感が必要だった。だから、この手で早く仕事がしたかった。仕事をして自分の「生」を自分で繋ぎたかった。学生浪人や就 職浪人など考えもしなかった。ただ早く「生きる実感」が、欲しかった。そんな私にとっては、卒業に必要な基準点をクリアしたから卒業出来るのだ、といった考えは、 不満に映る。いつの時代どんな時代でも、人の、たった一人の人の人生は、一本の間違いの無い頑固によって、支えられて進んで行く。人生の終焉まで。だから、たった 一人の人は、自分で自分だけの間違いの無い頑固を持たなければならない。それを持っている者が、「大人」なんだ。それを持つ為に青春は格闘する。青春の格闘が、許 されるのは「大人」になる為だ。社会の矛盾は勿論のこと、自分の存在にすら矛盾を感じて、生きることに希望や情熱を失うような青春。そんな青春に決別して大人の強 い心を身につけることこそが、この奈良学園6年間の卒業の意味だ。矛盾が正しい。そう受け入れて、この矛盾の世界で、自分がどう生きるのかを自らの力で判断し、行 動する。これを理解することが、卒業の証となる。テストで基準点をクリアしたから、卒業できるのじゃない。君達はどうなのだろう。
 不思議だな湯河君。君が去年の5月4日の天理高校との試合で、あの素晴らしい投球を私に見せてくれ無ければ、ここで、君達を前に話をすることは無かっただろう。 多分、木村副会長が君達を前に、よい話をされていたと思う。順序が入れ替わってしまった。あの日1:0でリードして迎えた9回裏、ランナーを3塁において、5番打者 に投げた初球のストライクは、私をイッキに30年前の野球少年だった頃にタイムスリップさせた。そして私の心の扉をこじ開けて、あの頃の熱い思いをあふれさせた。 私が湯河君に貰った感動は、私に生きててよかった、そしてこれから、もう少し生きてみよう、頑張ってみよう、そんな気持ちにさせてくれた。中学の卒業論文で野球の ことをいっぱい書いた木村君、最後の夏の大会まで野球を続けた西川君、松井君。君達も湯河君と同じだ。長い人生の中でこんな感動に出逢えるのはそうはない。生きる 希望を与えてくれる、そんな感動に出逢えるのは、極僅かしかない。それを味わった。感動は分かち合える。感動は言葉になる。ありがとうの素直な感謝の言葉になる。 4日後、校長先生からの育友会長依頼を受け入れたのは、この感動に応えたかったからだ。
 「ねえママ、僕、知ってるよ。どうして生まれてきたのか、知ってるよ。ママに会うためだよ」3歳の田中大輔君が、母親に言った。君達にこの子の言葉の意味がわか るだろうか。自分が最も大切にし、最も愛し、最も信頼しているお母さん。自分のことを誰よりも大切に、誰よりも愛してくれるお母さん。そんなお母さんに会うために、 僕は生まれてきたんだよ。まだいくつも言葉を知らないはずのこの子が、そう、はっきりと母親に言った。君達は何故生まれてきたのかを、言えるだろうか。この学校で 6年間詰め込んだ膨大な知識を駆使して、明確に答えられるだろうか。多感な今の君達には、こう言った方がわかりやすいかもしれない。1ヵ月後のハードルを見事クリ アして、大学のキャンパスで恋愛し、君達の彼女が耳元で「私が生まれてきたのは、あなたに会うためよ」そう囁いたら、どんな気持ちになるだろう。倉君、君なら少し はわかると思う。また、この時「ありがとう。僕もそうだよ」と、応えられなければあまりにも悲しい。そうは思わないか。
 私が湯河君から貰った感動も、もし私が野球音痴だったら空虚な出来事として、見過していたに違いない。野球少年でその後30年間、自分の思う野球を見続けてきた からこそ、感動を味わえた。感動を味わえる心を養わなければならない。感動を人に与えることの出来る人間にならなければならない。そんな人間に自分自身がなるため に、生まれてきたのだ。人は人生の終焉まで、幾度となく感動に出会える、そう確信をもって生き続けるんだ。
 最後に親として保護者として君達に言わなければならない「後一ヶ月、死に物狂いで勉強しろ、命懸けで勉強しろ、寝る間も惜しんで勉強しろ、そして、入学したら恋 愛しろ」。終わります。


「新入生の皆さん、本日は入学おめでとうございます。」2001.4..5

 君達は信じられないかもしれないが、私も35年前に中学に入学し3年後には高校に入りました。今や、皺だらけの顔に白髪混じりのおっちゃんになりましたが。当時 は君達と同じ紅顔の美少年だったはずです。もうどんな顔をしていたのか忘れてしまいましたけれど。そこで、やはり私が君達と同じ年頃だった30数年前に、悩み考え ていたことをお話して、祝辞にかえさせていただきたいと思います。
 奈良学園は本年23回目の入学式ですから、私の10代にはこの学校はありませんでしたが、私も君達と同じ6ヵ年一貫教育の私学に当時通っていました。ちょうど高 校に入った、ですからその学校では4年生の頃、私は自分自身のことについて悩み始めました。最初は将来のこと。どんな人生を生きればいいのだろう。自分はこれから どこへ行くのだろう。否、それよりも、何故生まれてきたのだろう。どうして人間として生まれてきたのだろう。そんなことを、悩み始めました。
 君達は今日此処に来るまでに、桜を始めとして緑の中に鮮やかな自然を見てきたと思います。空を見上げれば鳩、烏、雀、ヒヨドリ、歩けば犬、猫、牛、馬(牛や馬は 見ないな)、もっと小さな蝿や蚊に至るまでこの地球には、数え切れないほどの生き物がいる。それなのに何故自分が人間として、生まれてこられたのか、不思議に思い ませんか。何に生まれてきても、それこそ不思議じゃないのに。そうでしょう。そして私は自分が何故人間として生まれてきたのかを考えるうちに、どんな人生を生きれ ば良いのかの答の欠片を見つけたのです。君達なら私と同じように卒業までにその欠片くらいは見つかるはずです。これが見つかれば人生の生き方がわかるのですから、 人生を迷う事無く生きていけるのです。素晴らしいでしょう。生きて行き方に迷いがなくなるのですから。長い人生の岐路で二者択一やそれこそ五者択一になるかもしれ ない時、間違いなく、迷う事無く自分の道を選択できるようになるのですから。何故、人間として生まれてこられたのか、卒業までにしっかり考えて下さい。
 さて、私はそんなことを悩みながら、ついには「人間の死に方」、何ていう本を読んでいたのです。生あるものすべての最後である死から、逆に生き方を探ろうとした のです。これが、少しはヒントになるかも知れません。
 ところで、君達はどうして勉強しなければいけないのかと悩んだことは有るでしょう。これが無い人はいないと思うのですが。語弊を覚悟で言うならば、ただ単に自分 の偏差値が高いということで、医者や弁護士になる為に勉強するのじゃないのだ。自分を知るために勉強はするものなのです。だから、勉強は一生続くのです。また、も し、君達が大学入試の為だけにこの学校に入学したのなら、残念ながらそれは誤りです。受験勉強だけなら塾や予備校で済ませてください。この学校で君達が勉強するの は、あくまでも自分を知る勉強なのです。何故なら受験勉強は受験が終われば一応終わりです。しかし、自分を知る勉強は命が果てるまで続くからです。
 私は、全ての学問は自分を知ろうとする心の働きから生まれてきたと考えています。例えば君達が随分気にしている数字、特にテストの点数や偏差値は、そのことを教 えています。テストで80点を取ればそのテスト問題において自分が八割理解をしていることがわかります。偏差値が50ならそのテストを受けた人たちの中で自分の位置 が真中にあることを示しています。これは極小さなことですが、これも自分を知るということに変わりはありません。
 暗い夜道で空に輝く星を何度となく見たでしょう。北極星は方角を、月の満ち欠けはどれだけ日が進んだかを、教えてくれます。暦の立春や啓蟄は、農家が種を蒔く時 期を知らせてくれるのです。人類のこうした発見と、生きるための弛まない努力は、自分が今しなければいけない自分の位置を知るために、生まれたものです。これも自 分を知るということに変わりはありません。
 これから君達はこの学校でより高度な学問をすることになりますが、それらの全ては、何万年も前から人類が自分を知るために蓄積してきた知識の積み重ねの線上にあ るのです。ですから、どれだけ進歩的に学問が進んだとしても、その根底には自分を知ろうとする心が横たわっているのです。これは、絶対に忘れないで下さい。
 幸い君達が入学したこの奈良学園は、塾や予備校と化した他の学校とは違って、自分のことを知り、人生の生き方を知り、何故人間として生まれてきたのかを十分考え ることが出来る環境が整っています。君達の選択は素晴らしく、正しいと思います。自信を持って学問に励んでください。今君達の横にいる仲間、そして先輩や先生は、 いずれそのことを証明してくれるでしょう。まずは、そんな多くの仲間や先輩、先生と一杯話をすることから始めてください。そして、卒業までには、何度も言いますが 何故人間として生まれてこられたのかの答えの欠片を見つけてください。これからの長い人生の為に。


「奈良学園高等学校高3野球部員の諸君へ」

 君達にとって、ひょっとしたら最後の試合になったかもしれない5/4の天理戦。勝負としては残念な結果になった。
 私はこの試合をこんな風に見た。初回に松嶋君が先頭打者として、レフト前にクリーンヒットを打った。これが、君達に間違いを引き起こさせた。不思議に思うかもし れないが、私にはハッキリといえる。多分何度も練習試合をして、相手のことを知っているのだろうけれど、そうであればあるほど私には、逆に不思議だ。
 ところで、球の遅いコントロールだけの投手に対戦する時は、まず、第一打席はタイミングを合わせることに重点をおいて、必ず流し打ちを試みなければならない。 遅いからといって引っ張るようでは、次打席からも成果は無い。タイミングを合わせて流し打つ事が出来てこそ、楽に引っ張る事が出来るようになるのだ。ただ力んで、 引っ張る事に終始した結果が、バットを早く振りすぎて、バットの先に当たった内野フライという結果を生んだ。
 バットコントロールが出来なければ、遅い投手は打てない。相手に翻弄されてしまう。これから、君達がバッティング練習をする時は、遅い球を左右に打ち分ける事が 出来るようにしなければいけない。これは、打撃練習の一番大切な要点なのだ。
 また、バットコントロールは、バッティングアイを育てる事にも役立つ。何故なら、左右に打ち分ける為には、どれだけ長く球を見続けられるかが、要求されるから だ。よほどしっかり、球を見ていない限り打ち分ける事は不可能だ。以前にも書いたけれど、ボールの芯とバットの芯がジャストミートすれば、球は勝手に飛んでいく ものだ。そのことが、この練習でわかるだろう。
 元に戻るけれども、松嶋君の引っ張ったレフトへのヒットが、君達に引っ張って打てるという錯覚を生み、その結果フライの連発になってしまった。私はこのことが、 敗因になったのではないかと思っている。松嶋君の実力とは何ら関係の無い事であることは言うまでも無いが、である。
 一回を終わって、投手戦になることは誰が見ても明白だった。1点を争うゲームになることも誰しもわかっていた。だからこそ、第一打席は流し打って、タイミング を合わせることに努力して欲しかった。そうすれば、8回のビッグチャンス、ノーアウト満塁では、得点できただろう。
 山際君、松嶋君、東森君、櫛部君、中学から5年間良く頑張ったな。ずっと見てきたから、君達の成長は手に取るようにわかる。嘘だというかもしれないが、嘘じゃ ない。私は人一倍野球のことを考えてきたつもりだから、そして君達と同じように5年間野球をし続けたから、本当にわかるのだ。自分の過去を見るようにね。
 この試合での、落ち着いたプレーは高3に相応しい素晴らしいものだったと思う。試合の流れが読めただろう。相手の動きがわかっただろう。試合の展開が見えただ ろう。今、自分がしなければならないことが、わかり過ぎるほどに、感じられただろう。そして、その思いとは裏腹に体が動かないモドカシサに、焦燥を覚えただろう。 そんな事の全てが、私にはわかるのだ。
 ごくろうさん。いい野球を見せてくれてありがとう。君達のことは、一生のいい思い出になった。
 感動をありがとう。2001.5.7



  そろそろ準備にとりかかろうか。と言っても、草刈り機を持ち出して竹薮の下草を刈るだけなのだ。暖冬が年々進む中で筍も早くあがっているのかと思いきや、 初物は1998.3.31 1999.4.1 2000.4.10 2001.4.2 と、近年はそうでもない。
 3月半ば大美和の杜の彼岸桜が見頃になった。土筆ももいで来た。急ぎ足の春の足音にせかされて、慌てて草を刈りに行った。牛乳瓶2本分の混合油をタンクに入れ て、約1時間の軽い作業である。
 一週間後親父が外から帰るなり「今年は筍食べられん」と言った。なんと猪に竹薮のほとんどを掘り起こされたのだ。丸く深い穴は見事と言うほか無い。春先の餌の 少ない山里の反映であろう。猪も生きていかなくてはならないのだ。
 穴を修復して帰り際足元に小さな蕨を見つけた。その20数本を摘んで帰ることにした。初物は75日寿命が延びるという。
 ご存知でしょうかね。蕨のとり方。根こそぎは駄目ですよ。首の少し下にポキッと折れるところがあるのです。ここから摘み取ってくるんです。根は残してね。この 根からまた来年蕨が上がるんです。良いでしょう。こうして毎年春を味わうことが出来るのです。
 少しばかり筍の初物を味わう時期が遅れたけれど、蕨は残してくれた。猪も人間のことを思いやってくれているのだ。そう感じながら早朝の竹薮を後にした。
2002.3.25


小さい時に見た大きな川

大人になったら小川だった

こどものときは小川を畏れていた

小さい時は何にでもカタルシスを感じたのに

大人になったら畏れを無くした

真実を見たと思っているけど

ほんとにそうかな

畏れを無くした心には虚無だけが残った

ニヒリズムは大人だけの世界

色に溢れたこの世もいつかは空だが

こどもの時のように畏れを持って色一杯に見続けたい

ノスタルジアはカタルシス