「もう関係ないよ」の声が聞こえて来そうです。
春の足音が確実に近づくのを感じませんか。先日、土筆を見つけました。学校や先生方、東大寺学園には、何の関係も無くなった。そうお思いの
諸兄も多いと思われます。私は、否定するつもりはありません。どちらかと言えば、寧ろ、私もその中の一人でしょう。ただ、あの6年間で得た友達
は、忘れることが出来ないのです。目を瞑れば、ハッキリと瞼に浮かんでくるのです。そして、その出会いを演出してくれた学園に感謝しています。
ところで、現在まで末尾記載の11名の同級生に寄付をして頂きました。その際、以下の文面でバックルを贈呈致しました。勿論、私の自分勝手
な気持ちからです。
さて、今回の寄付依頼は、最終になる予定です。そこで、ご迷惑とは知りつつバックルを同封して、再度寄付依頼をさせていただきたいのです。
何卒、よろしくお願い致します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東大寺学園の特別教室棟への寄付感謝いたします。 そのお礼と言っては、失礼かもしれませんが、同封のバックルを受け取ってください。 バックルのいわれは、下記のごとくです。
覚えておられる方もあるかもしれません。我々中学野球部が、春の選抜県大会に出場したさい、菁々中学野球部O・B(1・2回生が中心)の皆さん から、ユニフォームを寄付していただきました。 実は私はこのことを、全く記憶していませんでした。「菁々50年」(東大寺学園同窓会記念誌)の記念 誌委員をしていた関係で、2回生の島岡隆様宅に伺った時に、初めて知りました。 ところで、島岡様はこのことがきっかけで、東大寺学園にこのバックルをはじめとして、物品販売に行かれるようになりました。 平成3年に体調を崩されてやめられたのですが、このバックルはその残りだそうです。 私はユニフォームのお礼と感謝の意をあらわすため、このバックルを有効に使うべく、島岡様からあずかりました。
ということで、特別教室棟の寄付の記念品として、お邪魔でしょうが受け取ってください。
2000.10.3 北村克明・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現在までの20回生、寄付者名簿。
片岡幹雄、小阪忍、米虫徳起、谷村光司、津山恭之、萩原清三郎、平井勝治、藤井康伯、森均、森本訓敏、北村克明。以上11名です。
1、乾燥麺に比べて茹で時間が短い(当社比2分の1)
茹で時間が短いことのメリット
−調理時間が短縮できる
−水分の吸収量がすくない為色が鮮やか(麺のふとりが小さい為)
−材料の香りが良い(湯の中で溶け出す時間が短いため)
2、乾燥工程がないため材料が本来持っている特徴が、四季を通じて安定的に保てる。
−乾麺は乾燥時間が夏と冬で大きく違う
−気温、湿度の変化に対してほとんど影響されない
3、ゆで麺の冷凍ではないこと
−冷凍麺のほとんどがゆで麺であるため解凍時の加熱とあわせて2度の加熱が必要である。この為味覚がかなり損なわれる。
* 以下デメリットと思われること
−冷凍輸送及び冷凍庫が必要になる(コスト増になる)
−ゆで麺でないため加熱調理が必要(2分間茹でなければならない)
−−20℃前後と低温のため茹でるときの湯量が多くいる(温度の低下防止のため)
−冷凍庫の開閉過多による品質の悪化が懸念される
(温度の変化による)(庫内灯による色の変化)
−解凍すると生麺となるため変質しやすい(冷凍状態であれば長期にわたって出来立てのまま保存できる)
多くの長所、欠点を持った商品です。わかりにくいことは、遠慮なく連絡下さい。
TEL 0744−43−8833 FAX 0744−45−3911
結論 歴史を経過し内容(材料)が変化しても名称が残った。
例 一般的にも知られているように「片栗粉」とは、現在では99%以上ジャガイモ澱粉のことである。つまり片栗の根から採取した片栗粉は、今はもう無いが
名称だけは残ったということである。使い勝手の上からも、栽培し易さからも、単価的にも、取って代わられたということであろう。
同じように「くずきり」も自生している葛根から澱粉を採取して、当初はつくられていた。江戸時代以降、甘藷(サツマイモ)や馬鈴薯(ジャガイモ)が日本各地
で栽培され始めると、これらから取った澱粉が片栗粉同様の理由で広く使われ始めたと考えられる。
現在では単価的に芋澱粉は安いが当時はどうだったか疑問である。何故なら自然に自生している葛と農業栽培を経てつくられたものでは、人件費を考えない時代と
はいえ単純には比較できないように思われるからである。
ただ言えることは、材料の持つ特性が近似していれば、安定さが重要になるということだ。つまり、いつでも、どこでも、必要なだけ、変わらない値段で安定的
に手に入るならば、取って代わられる要素になりうる。
片栗粉が明治以降急激に馬鈴薯に取って代わられたと同様、葛粉も甘藷や馬鈴薯に取って代わられたということだろう。くずきりは加工製品であるだけに、材料
の変化に従ったと考えられる。或いはその安定さから材料の変化を生んだとも考えられる。
いずれにしても、明治以降のいつ頃から変化してきたのかは、定かではないが、歴史的流れの中で変わってきたことは事実であろう。
蛇足になるかもしれないが、葛粉は葛根から精製されているべきだという主張は当然としても、くずきりが葛粉だけで作られていなければならないという主張は、
加工製品であるだけにあまりの拘りはどうだろうか。
竃k村製麺所 代表 北村克明
食品の美味い、不味いはその人の味覚が、どれだけ鍛錬されているかで決定づけられる。グルタミン酸、イノシン酸のうま味とは違う、材料全体が持つうま味
を生かしたい。全体のうま味の中には、苦み、辛み、酸味、甘味等は勿論のこと、その食品固有の香り、色、歯触り、手触り、音色まで含まれる。つまり、うま味は
五感で決められる、と同時に五感は鍛錬によって進化する。なぜなら、ピカソのゲルニカは、鍛錬された者の眼でなければ理解出来ないのとおなじで、グルタミン酸
やイノシン酸のうま味は、誰でもわかるが、全体のうま味は、五感を鍛錬しないとわからない。全体のうま味とは食品固有の味のことであるから、簡単にいえば、ネ
ギがネギの味をしていればよいのである。
私の祖父が30年程前、このごろの砂糖は甘くないと言っていた。甘い物が大好きだった祖父の味覚に狂いはないはずである。砂糖が甘くないということは、砂糖が
砂糖の味をしていないということだ。ネギがネギの味をしていないのと同じであるから、美味くないということになる。ただ、その食品固有のうま味は、いかにたく
さんその食品を食べたか、によって決まる。鍛錬とは、本物との出会いの多さのことである。
例えば、うどんがうどんの味をしているとは、どういうことか。饂飩と書く、饂はあたたかい、と言う意味を持っている。飩は米や麦でつくった蒸し餅のこと。つ
まり饂飩とは、麦で作った暖かい団子(餅)のことなのだ。そして、麺類のルーツは、すべて団子から始まる。饂飩は麦きり、蕎麦はそばきりというように、饂飩は
小麦粉で団子をつくり、蕎麦はそば粉で団子をつくり、麺状に切った物のことをいう。小麦粉で団子をつくり、麺状に切った物を饂飩というなら、饂飩の味とは小麦
粉の味と言える。小麦粉の味のしない饂飩は、うどんではないことになる。うどんの材料のルーツ(小麦)がわかる味に仕上げるのが私の仕事だと思っている。
ところで小麦の味知っていますか。小麦と小麦粉の関係はどうですか。
もう5年位前のことになります。ビール工場の見学に行ったとき、ビール麦(大麦)をフスマのついたまま食べました。これが非常においしい。ビール工場の見学
のたびに飲む、出来立ての生ビールがなぜ美味しいのか、このとき初めて知ったのです。ただこのビール麦、展示品だったのでほんとは、勝手にたべてはいけなかっ
たんですが。私達はもっと、原材料を知らなければなりません。おいしいものを食べた時、いつも思う心-なぜ-を大事にしたいものです。そして常にそのルーツに、
心をむけるべきだと思うのです。
2000・春 今年は遅い。 桜は約一週間 筍は10日位。 4/10筍2本 4/14筍6本 4/18筍27本掘ったけど。昨年は4/1筍25本 以下5月連休明けまでに約300本掘っ
た。いわゆる豊作の裏年にあたったのか。旬を食べる。これが僕の愉しみなのだが、今年は淋しい。毎年「つくし」からはじまって「わらび」「たけのこ」とつづ
く。ただし、筍掘りは、最初の待ちどうしさから、後の重い足どりへ至るまで、一ヶ月の長丁場だ。いい汗かきながら、自分で掘った旬の筍、不味いはずが無い。
僕の幸福観とは、かくも自然によってあたえられている。
4/20 本年26回目の三輪山登山、畦道を行くと「れんげ」「たんぽぽ」「からすのえんどう」「いたどり」「きんぽうげ」が元気。土筆が可哀相。スモモの白い花が
しおれ、替わって桃の花が満開。万葉集の歌「春の苑 くれなゐ艶ふ 桃の花 下照る道に いで立つ少女」(大伴家持)
そのままに、狭井神社から御神体三輪山に入る。雨後の道、土の香、落ち葉の香、生気に満ち満ちている。泥濘に足をとられ、額の汗をふきふき、一歩づつふみしめ
ながら登っていく。滝の行小屋、中津磐座(いわくら)を過ぎ、山頂(467m)の高宮神社にたどり着く。まだしばらく行くと奥津磐座に至る。一時間弱、自己浄化
の連続に身を浸している。
話し変わって下山道、サッチィーが登ってくる否サッチィーに似た人がやってくる。すかさず僕は「おはようございます」、苦虫の似た人も一転ニコリとして「お
は ようございます ようお参り」。これが人との出会い。言葉が通じた瞬間。これが人気の無い登山道での、真のご利益というものだ。きょうも最高。
バッハの「ロ短調ミサ曲」は、ニコラス・アーノンクールやヘルムート・リリング指揮のが好きだ。素朴な表現というか、ストレートな表現というか、古楽器
をつかって、18世紀初期の、原点に忠実であろうとする姿勢から生まれた表現に惹かれる。とくに、アーノンクールがいい。初めて「ロ短調ミサ曲」のCDを買った
のが、彼の指揮によるものだったからかもしれないが。彼による「ミサ1733」が、キリエとグローリアだけなのだが素晴らしい。アーノンクールとレオンハルトが、
共同で取り組んだバッハの「教会カンタータ全集」は、偉業といえる。結婚直後に発売がはじまったのだが、全巻揃えようと毎週日本橋の「ディスクピア」に車を走
らせたのが、なつかしい。
バロック時代の集大成となったバッハの音楽に、なぜ僕が感得するのか。それは、競走馬(サラブレッド)の血管の浮き上がった、贅肉の全く無い、走るための
エキスだけの肢体のように、研ぎ澄まされた精神性の高さを感じるから。一音一音に、全くの無駄を許さない、遊びの無い厳しさがある。たしかに、バッハの音楽は
建築の設計図を画くような精緻な感がある。しかし、バッハを愛したシュバイツァー博士は、バッハの音楽を「絵画的表現を多数用いている」と評した。
器楽音楽の父としてみたとき、何といってもカザルスの弾く「無伴奏チェロ組曲」が、秀逸だと思う。モノラル録音CDにもかかわらず、これほどバッハをうた
わせた奏者は、カザルスをおいてない、と思わせるほどの出来である。そう、バッハを弾くためにカザルスは、生まれてきた、といえるぐらいだ。ヨーヨー・マも聴
くが、彼をはじめ多くの演奏家の音色とテクニックには感動するにしても、その精神性においては、カザルスにまさる演奏家を知らない。もちろん不勉強だからなの
だが。ピアノ・ハープシコード曲の奏者、ヘルムート・ヴァルハやルージチコヴァーにしても、かたよりを感じるし、グレン・グールドにいたっては、疑念を抱いて
しまう。室内楽のピノック、パイヤールにしても自己解釈にすぎない、原点バッハの精神性が失われている。もっともこの評価も、私の自己解釈にすぎないのだが。
バイオリンの堀米ゆず子は、あと一歩としても、シゲティの力強さは特筆ものだ。やはり20世紀初頭の演奏家は凄い。
いままで論じてきたことは、すべてCD上のこと。こどものピアノ発表会以外での、生演奏は聴いたことが無いので。ただその発表会での、音大教授(かなり年
配の女性だったが)のピアノの音色の素晴らしさには驚かされた。おなじピアノでこんなに音が違うのかと。叩けば音の出る楽器なのに。音は楽器がもっているの
ではなく、その楽器を弾く人間がもっている、ということをはっきりと認識した。いい発見をして、その日はルンルン気分だったことを思い出した。
以上私の数少ないCDコレクションから、思い出すままのバッハを語らせてもらった。気分を害された方もおられるかもしれない。シュバイツァー博士の弾くバ
ッハが、我々凡人には、一番似合ってると思うんですがどうでしょうか。
この歌に出会ったのは、2000.1.20だったらしい。作者に聞かされるまで、こんなことすら覚えていなかった。その日は仕事帰りのほんの1時間ほどの道草。高
校時代の友人の、可愛い奥さんの絵画&サウンドの個展程度の認識で、親友への義理みたいなものに動かされて、ついつい行ってしまった。まあちょっとした暇つぶ
しを兼ねた、書店の立ち読みみたいなものである。
GM-1 この空間は作品を旨く配置した。一見したときから、僕は自分の心のなかを見つめていた。彼女が好きだといったブルーを基調にした作品群は、皆確かに
音を奏でていた。100号サイズの数枚の絵に圧倒されながら、なお自分の心を見つめていた。人の深奥に入り込んで、心の扉を開こうとした彼女のブルー。その美し
さに見惚れてしまった。言葉で言い表せないのではない。文字に書き記せないわけではない。これらの行為が、愚かしいのである。形が、線が、タッチが、色が、技
量が、考え方がどうだというのだ。そんなものは、彼女にとって何の意味もない。彼女が表現するすべては、彼女の心象風景であり、愛そのものである。愛を語るの
に、テクニックなどいらない。自分の想いを素直に、ありのままに表現すればいいのだ。嬉しいことに、作品にそれを見た。
しかし、まだ自分の心を見つめつづけていた。この個展のコーディネーターY・Sさんと、おしゃべりしている間も、いただいたコーヒーを飲みながらも、ずっと
自分の心を見つめていた。きっと、空ろな目をしていたに違いない。
「黄色い星」が、始まった。一瞬、目の前が真っ白になってしまった。僕は30年前の12月に、タイムスリップしていたのだ。北海道の大雪原、轍も見えない白道を、
死に向かって彷徨していた、あの16歳の12月に。1.20には何故白かったのか、わからなかった理由が、しかし確かに白かった理由が、3ヶ月以上たったいまようやく
わかったのだ。
ブルーに導かれた自分を見つめる目、その孤立感が黄色い星のメロディーに誘われて、もっとも孤独だった30年前の空間に、あの時イッキに立たせたのだ。尚も歌
はつづく、7分弱の1曲が終わった時、人生の30年分を全て見せてもらっていた。「黄色い星」 孤立から幸福までを、アンビエントな愛のメロディーが奏でる。
2000.5.13
菁々中学は戦前の階級社会の思想や男女別々の学校教育制度を引きずって GHQが戦後行った農地改革等の民主化(良く言えば平等教育 悪く言えばゴチャマ
ゼ教育)に同化するをよしとしない 高いレベルの教育を求めた人達に 後押しされて誕生した。この人達−椿井小学校の親達が中心となっていた(一回生42名中
約10名)−故に 菁々の教育内容は 戦後出来立ての6.3.3制の教育とは違った1歩進んだものになったのである。
この親達のめざした教育は 男子単学・英才教育(少数精鋭)であった。これは今日の東大寺学園に引き継がれている。また英才教育をするためには 金
銭のひも付きは排除しなければならないと考えていた。
何故 椿井小学校なのか 菁々中学校の創設に大きくかかわった 故中村止戈男先生(初代教頭)の甥である一回生安井氏が椿井小出身だったからだろう。
戦後満州から引き揚げてこられた中村先生は 安井氏宅に居候しておられた。6.3.3制の教育に飽き足りない中村先生が 同じく新制中学校の教育に不安を持
つ椿井小の親達とともに 故狭川明俊(東大寺長老・当時金鐘学院理事長)師を説得して夜間の金鐘中学校の施設を借りることに成功した。そして 学校教育に深
い理解を持つ故清水公照(東大寺長老・当時金鐘中学校長)師を校長に 清水公照師を推すある篤志家の援助を受けて昭和22年4月菁々ははじまった。
一回生35名は これらの人達の熱心な勧誘によってまだ誰もいない学校(仮称.平城中学校 校舎は東大寺経営の夜間校 金鐘学院高校の校舎の間借り 南
大門西側)に入学した。
校名はこの35名の生徒への募集から 初代同窓会長水谷嘉郎氏の「菁々」が選ばれた。水谷氏が亡くなられた今「菁々」の由来までは分からない。ただ「菁々」とは
辞書によれば人材を教育することとある。校章は水谷氏の父親嘉六氏の図案による。父母・先生・生徒が一体となった姿を三つ輪によって象徴している。
菁々の教育方針=中村止戈男と言っても過言ではない 中村先生は「単なる学問のみが人間教育ではない いかなる事態にもよく耐えうる不屈の体力を兼ね
備えてこそ 真の全人教育になる」と確信していた。当時人気のあった野球で 県下で一目置かれていた中村先生(旧制海草中学校野球部部長兼監督
1926年-1932年)は まず校名を上げることも含め一回生を野球づけにした。授業では奈良教育大学及び奈良女子大学の教授(神戸先生を筆頭に)を講師として惜しみ
なく迎えた。また一回生が三年生のときには すでに高校併設を計画しその実現を見ないと思うや菁々を去ったのである。
ここまできて思うことがある。我々が卒業した東大寺学園は、もし親達が他の場所例えば興福寺の施設を借りていれば、興福寺学園になっていたかもしれな
いということである。
また 椿井小の親達はこの時 東大寺の金鐘高校の施設は借りても 東大寺の援助は受けないと決めていた。専ら父兄の負担に於いて父兄の学校として発足しようと
考えていた。資金がどれくらいかかるか全く目処がたっていなかったにもかかわらず。それ故に 校名を東大寺が経営する金鐘学院高校付属金鐘中学校とは出来なか
ったのである。一回生がこだわる「菁々」とは、まさにこのことなのだ。
「東大寺の援助は受けない」の陰で 清水公照師は金策のため東奔西走することになる。
資金は無い施設は借り物と いつ学校が消滅するかもしれないと言う危機感を抱きながら 一回生の生徒・親・教師は三者一体となって 頑張らなければならなか
った。二回生が来なければ学校は無くなるのである。校名をあげることは勿論 二回生募集のために近接の或いは既知の或いは出身の小学校を 一回生自らが描いた
生徒募集のポスターを携えて訪問した。兎に角必死だったのである。これもまた一回生がこだわる「菁々」である。
清水公照師にとって この生徒・この親・この教師達はいつのまにか心の中で大きな財産になっていた。その為親達のこだわり 生徒のがんばりは無碍に出来ない
さりとて資金はいる。30代後半の清水公照師はただの清水公照として 数少ない知人(篤志家)を頼って東奔西走するしかなかったのである。
広島高等師範学校出身の中村先生は 戦時中に満州に渡り 引き揚げ後 我が身の振り方とともに 戦後台頭してきた共産思想による教員の賃上げ闘争を目
の当たりにして、日本の教育・教員に強い懸念をいだいていた。中村先生にとって教職とは聖職であった。日本の復興こそが第一と考えていた先生は 将来を担う人
材教育に思いを馳せていた。
ある時(1947.3月)東大寺を散歩していると 南大門の西側に学校らしき建物を見つけた。夜間の金鐘中学校であることを知った先生は 義弟の安井氏(当
時東向北通りで「青楽」という喫茶店経営)に中学校をつくろうと持ちかけた。教育論で意気投合した二人は この後理想の学校づくりに動き始める。まず金鐘中学
校の校舎を昼間借りるため清水公照師を教育論を携えて 椿井小の同志の親達と訪れた。
1946年2月28日 清水公照師復員して奈良に着く それから一週間後 戦後の荒廃の中で今後どうなるかもわからない「金鐘中学校」の校長を引き受ける。生きて
いたいの一心から「これから」を模索していた その時中村先生と出会ったのである。しかしこの時から公照師は 学校づくりにおいて「男子単学」「中学だけ」と
決めていた。勿論施設が不十分であったことも決め手の一つだった。「これから」が始まった。
学校づくりは 1.生徒 2.先生 3.校舎が必要である。生徒は椿井小学校の親達が 口コミと生徒募集のポスター貼りで集めた。中には新聞の奈良版に載っ
た広告を見て入った人もいた。先生には金鐘中学から島田先生を招聘,紅一点村田先生には水谷嘉六氏がもちかけた。校舎は昼間空いている金鐘中学の校舎(否、東
大寺境内という日本一の環境)。学校設立の許可を貰うため中村先生は文部省まで足を運んだ。中村先生にとって学校づくりは 過去の経験から何ら躊躇する事では
なかった。
そろそろまとめなければなりません。中村止戈男先生が「学校つくろうか」と声をかけられなかったら 清水公照師・狭川明俊師をはじめ東大寺のかたがたの「華
厳の心」がなかったなら 子弟教育に篤い志を持った親達がいなかったら「菁々」は誕生しなかったのです。そして情熱ある先生方がその後続々と集合されたことが
今日の「東大寺学園」を創ったのです。
東大寺学園の前身である菁々中学校誕生のいきさつや 二回生を迎えるまでの校章の三つ輪に象徴される 先生・父母・生徒の一丸となった姿に 真の教育
を見た思いがするのです。 −未完− 20回生 北村克明
1946.11.3 日本国憲法公布
1947.3.23頃 菁々中学設立の動きが慌ただしくなる
3.31
学校教育法公布(6.3.3.4制)
4.1 「仮称:平城中学校」で中学校の設立が認可
「東大寺境内 仮称平城中学生徒募集」のポスターを三条通りに貼る
4.5
志願者いまだ10名余り
入学試験「内申・親子同伴の面接」
4.20
開校式 35名
5
校名「菁々」・校章決定 (ともに水谷父子の発案)
中村止戈男先生 年譜
1898.6.4 誕生
1919.3 滋賀県立師範本科一部卒業 大津市南尋常小学校訓導
1921.3 南満州奉天尋常高等小学校
1924.4 広島高等師範学校入学
1926.3 卒業後 和歌山県立海草中学校
1929・1931甲子園に出場
1932.3 朝鮮仁川南公立商業学校
1934.5 朝鮮総督府視学 江原道視学
1937.9 満鉄本社学務課視学 副参事
1938.4 奉天日本学校組合主事
1939.3 三江省佳木斯在満国民学校長
1946.10.24 引き揚げて博多に着く
12.1 芦屋市視学
1947.2.20 2.1のスト騒動で自ら辞職
1947.4.1 菁々中学校主事 教頭
1950.3 菁々退職 追手門学院高校ヘ
1961.4.1 定年退職
1983.8.7 85才病没
資料 「ある持教者の生涯」ぜぜ・たけお(中村止戈男ペンネーム)
菁々中学校創立10周年記念「菁々だより」
「鴟尾」1.7.8号
中村先生からの手紙(平田様所蔵)
お話をうかがった方々
中川教頭先生 直木先生 関先生 中村文雄様
一回生 秋山様 井村様 加藤様 沢辺様 多山(父)様
高橋様 平田様 福岡様 安井様 吉田博様
二回生 岩井様 島岡様 豊沢様
1. Tomorrow never knows
2. 君がいた夏
3. イノセント・ワールド
4. 口笛
5. Everything it’s you
6. シーソーゲーム
7. Cross road
8. 抱きしめたい
9. ロード・アイ・ミス・ユー
10. 風
11. Distance
12. 星になれたら
13. ALIVE
最初に良いと思った歌は、Distance たぶん我が青春時代のメロディやリズムに、一番似ていたからかも知れない。最近までは、風 が好きだった。いまは、
口笛とEverything it’s you がいい。その他の歌は、誰が聴いてもいいものばかりだと思う。とにかく、暖かいラブ・ソングだ。しかも、飽きが来ないのが
不思議なくらい、素晴らしい。高3の長女に感謝している。 2000.6.20
「6年間 美化委員したからな」そういって、目覚し時計をいただいた。もうなくしたけれど、僕にはこのときが先生との、最初で、ほんとの出会いのよう
な気がする。とにかく、勉強がきらいで、当然出来ない僕にとって学園での6年間は、苦痛以外のなにものでもなかった。学校を間違えたのである。数学、英語、
物理、化学と、ろくな教科が無い。おまけに、教師も教育者と呼べる連中は1人もいない。唯一、僧籍にありながら清水公照師だけは、そう呼べた。なべて、学問
一筋の教師ばかりで、ついぞ教え方を知らなかった。出来ないものは、どんどん落ちこぼれていく(勿論、俺だけだが)。この現実にたいして、全く手を打たず自
主性という美言が、おおでを振っていた。
そんな中で、野球だけが僕を学園に引き止めた。素晴らしい仲間と出会えたことに、いまでも感謝している。しかも、彼らは僕の頑固につき合ってくれた。今で
も、申し訳ないことをしたという気持ちと、意地をはりとおして勝った試合の喜びが、二重写しになっている。全く関係ない話だが、宮田はいまだに巨人を応援し
ていて、メールで今年は優勝すると言ってきかない。 miyatam@panasonic.com
目覚し時計の件で、先生への見方が変わった僕は、結婚式の仲人を先生夫妻にお願いすることになった。あんなに緊張した先生を見たことが無かったので、申し
訳ないことをお願いしてしまったと思ったものだ。しかし、先生の中にまたまた人間性を見た思いがして、不思議と先生に対して持っていた、緊張感がどんどんほ
ぐれていった。
ある年の正月、我々20回生がいつものように先生の自宅に集合していた。少し酔いが回り始めた頃、先生は「おい北村、お前どうして家出なんかしたんや。この
ごろ、増えてきたんや。」「さあ、自分でもわかりません。」と答えただけだったが…。学校の有り様に関して、自称おちこぼれの僕が何を言ったところで、しょ
うがないと思ったからである。
夏目漱石の「こころ」のなかに、〜こどもが学問をしてえらくなると、家に帰ってこない〜と嘆く主人公の両親のことばがある。年老いた両親にとって、子供が
学問するということが、正なのか負なのかを自分自身に問うているのだ。東大寺学園は、帰ってこない子供ばかりを輩出する学校なのだ。
今僕は学園の同窓会の幹事をしているが、幹事のほとんどが奈良県在住である。まったく矛盾した学園の選択に、たまには腹立たしくなる。帰ってこない子供を
輩出する学校が、その同窓会の幹事に県在住者をあてざるを得ないのである。学校の存立基盤が、どの辺にあるのかも分からないような、はなしである。まあ、僕
には関係ないことなのだが。
こんなことを言いながらも学園の同窓会幹事をしているのは、つとに臼倉先生が、僕が迷惑や心配をかけたときの学年担任であり、いまだに学園にご健在で同窓
会のお世話を中心になって、やっていただいているからである。
わけのわからんことを書いてしまった。書きたくないと言ったのに、誠造が許してくれないもので。 北村先生 安らかにおやすみください。 克
明 2000/4/18
この日(2000.5.14)北村先生夫妻の形見分けがあった。戸惑いを隠せないまま、僕は最終的に夫妻の、LPコレクションを、全ていただく事になった。7回生
は、谷村、阪田、宮谷、浅田、津山、そして僕の6名だったか。あまりにも膨大な量に、茫然としていると「ほっといても、廃棄物業者が回収に来て、捨てるだけ
だから」との言葉、それならと音楽を聴くのが好きなもので、LPに決めたのだ。500枚は優に越す、その一枚も残さずいただいて帰った。
皆は知っているだろうか、カザルスの弾くバッハ、コルトーの弾くショパン、西洋音楽の原点「グレゴリオ聖歌」等々、驚愕のコレクションだった。いまその一
つ一つを、丹念に聴かせていただいている。20世紀初頭から第二次大戦までに、大活躍した巨匠達の音楽に触れると、どれだけ心が揺さぶられることか。戦争を知
らない僕達は、一音の持つ意味が全くわかっていないことを、思い知らされるのだ。たった一音で人類愛を奏でる彼等には、何者も侵犯することが出来ない気高さ
と、すべてのものを包み込む暖かさが同居している。自分は一体何をしているんだろうの、自責の念にかられてしまう。
先生にとって決して良い生徒ではなかったはずなのに、あまりにも素晴らしい形見分けを頂いてしまった。申し訳ない気持が胸を衝いて出てくる。何とか全部
のLPを聴き果たして、遅ればせながらその恩に報いたいと思っている。
本日、LP539枚無事聴了致しました。昨年の形見分けの日以来、毎日聴き続けて漸く終わったと言う感じです。何だか肩の荷が下りた気分です。それにして
もLPの暖かさは、CDを聴き慣れた耳に、新鮮です。郷愁といったものではなく、CDの世代にも音色の良さはわかるでしょう。―2001.3.31―
秋も、日毎に、深くなっていきます。
先日来、北村先生のことにつきましては、お世話になりました。一周忌にむけて追悼文発行作業でも、お力をだしてくださったことでしょう。
誠造さんは、もう少し多くの人が書いてくれても・・・とか、同窓会にもう少し多く集まってくれても・・・と思わないでもないでしょうが。実際に形になる以上
に、心理下では、多くの人の心が、動いたと思います。目に見えるものだけが、成果ではないでしょうから。
北村先生への想いには、屈折したおもいが、つきまとう人も多いでしょうし、もっと形を変えると、東大寺学園へのおもいにつながる場合もありますね。
追悼文の中で心に残ったのは、おおむね心の葛藤がどんな種類のであれ、底にある人のそれだったように思います。自分がどんなに先生に愛されたか、を並べられ
るだけのは―仮にあったとして―ハイ、ハイ、ソウですか、アンタはエライ、なんて、どこかで思ってしまうだけでした。北村さんの文は感銘を受けました。書いて
下さってありがとうです。人間が人間と「本当に深く出会う」のは、時間もかかり、チャンスもあるのだろうと思います。北村さんは、先生に出会えて、よかったで
すね。47才になって「出会えなかった」ことで、被害者意識をもってるでしょう人をおもうと、溜息が出ます。誠造さんは「そいつは、そういう奴や」と言い切ろう
と(時には)思うようですが・・・。
さて、あなたが先生宅から持ち帰って下さったLPの数々は、多分、宮子先生の父上川村氏の、コレクションの一部だと思います。
私の父はクラシックが趣味で、それなりに、レコードも収集してましたが、川村氏は、それはもうクラシックのマニア級で、感嘆していたのを覚えています。父
は奈良女子大学の教授だったのですが、講師にある時期、川村氏を招いたことがあって、お互いに同じ趣味で、親しく語り合っていましたが、川村氏ははやく亡くな
られました。宮子先生が、レコード類を―結構カサバル―引きとってあげられたのだと思います。
私の父のレコードもSP盤もあり、マニアには「こたえられない」と言われながらもずっと、母のもとに陽の目をみずに保存してあります。
あなたのもとに大事にされているとは、本当に、不思議というか、人生わからないもの、だの感を強くします。
話は変わりますが、臼倉先生は体調があまり良くないようにもれききます。あなたが同窓会のお役を手伝ってくださっているのも、先生にはどれほど心強いこと
でしょう。私は中川先生と同じ年に先生になったのですが、臼倉先生はその二年程前に赴任されています。年令で言うと、先輩方のようになっていくには、まだまだ
お元気でいていただきたいです。(今年退かれた先生方にはまだ間がありますものね。)ついでがありましたら、よろしくお伝え下さい。
中学三年で亡くなった池田保君の33回忌が十月で、お母さんに会いました。一人っ子でご主人も十年以上前に亡くされましたが、しっかり暮らしておいでです。
中学のアルバムの写真があまりなくて、霧が峰の数年のカラースナップに一緒に写っている誰かれは、もうオジサンになってるのを思うと、お母さんの歳月をも思わ
ずにいられませんでした。
では、益々のご健勝をお祈りいたします。
北村克明様 2000.10.23 奥田悠子
2000.11.17 9:00過ぎに出発した私の車は、雨模様も手伝って遅刻寸前に、ホテル・ニューオオタニに滑り込む。遅刻とは言っても上演開始の、ではない。
昼食会の、である。たかだか四人の集まりではあったが、本部の中心的役割を担う連中に迷惑をかけられない。副会長2名、庶務、そして、私。
12:30 MBS劇場玄関前到着。外観は、劇場という名称から受ける派手さとはかけ離れた、カラートタン葺きの、いい加減な建物という印象を受けた。まあ、い
いか、中身の問題だ。心はもう挑戦的になっていた。校長と世間話。全て忘れた。半分は帰ろうとする気持ちの表れだったかも知れない。
13:30 開演。入場してから随分と劇場内を見回したのだが、正面のアフリカ様式とでもいうのかプリミティブな緞帳だけが、心を惹きつけた。F23、これが私
の席。隣の校長の話し相手が、今日のホントの仕事。私に勤まるはずがない。もっぱら逆隣の高一の母親会員と感想戦。ところがこの人、よく知ってる。文化部主催
のこの手の親睦会には、皆勤賞だそうな。新米役員の出番ではなかった。
ジャングル大帝。手塚治の原作そのままに展開していくストーリー。心のキッ線を震わすことは出来なかった。ドラマ性も、残念ながらだった。絵画性、彫刻性、
躍動性が素晴らしい。ひょっとしたら、台詞の無い芝居の方がよかったかも、そう思わせた。いい音楽の中で、動物キャストが動き回る、それだけで十分だったの
だ。「きっと、そうだ」一人納得していた。
16:30 閉演。さあ、帰ろう。
日本人の持つ美観に「時の流れ」がある。これを一言で骨董という。骨董品の価値は、新品の価値が時の流れを身につけて、さらに観る者に美しく感じさせる
ところにある。美しく歳をとっていく、ということかな。この「日々」は、まさにそれだ。文字に価値があるのではない。書いた書家が偉大なのではない。時の流れ
が「日々」という掛け軸全体を美的芸術品に仕上げたのだ。だから、この掛け軸から文字だけを外せば、ただのガラクタに過ぎない。
達観を日々と言う言葉で置き換えている。人は死ぬ。しかし、生死は今日と明日の違いくらいしかない。生と死は、日々である今日と明日の繋がりと変わらない。
人生を達観した言葉だ。喜怒哀楽を超えた悟りのことだ。悟りのことであるが故に「日々」は、より骨董としての光を放って見えるのだ。
Mihoミュージアム エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の証が陳列されていた。5千年も遡れば風化した遺物が、例え石であっても凄みを
持って迫る。ただの石ではない、人の足跡が刻まれた歴史を包含した石である。彫り、刻み、着色し、装飾した石である。5千年の時を生き、超えてその時代の石工や
王の意思が付着して、今尚現代に素顔を見せている。
私達は自己の人生のスパンで、物事を考え判断しがちだ。人生の100年に満たない時の間で。今生きる人全てが、確かな過去を踏んで繋がっていることなど微塵も
意識することなく生きている。しかし、遺構、遺物は、確かな過去を突きつける。忘れることや無視することは、不可能だ。同時に、私達が今在ることの奇跡を思い
知らされるのである。